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人間は横隔膜だ!
動物は横隔膜だ! 

ある時、深夜番組「草野キッド」を見ていたら、ゲストで寺門ジモンが出ていた。ダチョウクラブのなかでも一番面白くない存在だ。しかし、彼の身体能力の高さは有名ではある。自ら「ヒクソン・グレイシーに勝てる」というくらいだ(誰も信じちゃいないが)。

彼が、「熊にも勝てる」といい、「横隔膜理論」を展開した。ライオン、熊など、猛獣はうなり声で相手を威嚇する。うなり声は横隔膜を振動させて発しているというのだ。そして、熊と対峙した場合はこうだとうなり声を発してみせた。これで熊は寄ってこないというのだ。

おまえは、ムツゴロウかと突っ込みたくなるかもしれないが、彼はその理論を小学生の時に思いつき、山籠もりをして現在に至るまで鍛練してきたそうだ。

その理論は、芸能界最強の一人、草野仁をうならせ、これからは、藤岡宏と同格に一目置くと言わしめた。このエピソードはよほど、世の人々の心を打ったとみえて、「寺門ジモン、横隔膜」でネット検索してみたら、同じような話がいっぱいでできて二重に驚いた。

そんなことはどうでもいいのだが、横隔膜が大事ということについてだ。

ある患者さんが、ボイストレーニングに通うようになったと聞いた。そうしたら、自分のことが分かるようになってきた、今まで気づかなかった自分の内面的なことにいろいろ気づくようになったというのだ。

ジモンの横隔膜の話とボイストレーニングの話と何の関係があるか、そこが重要だ。共通することは「振動」という要素である。熊をも恐れさせたのは横隔膜の振動により発せられるうなり声である。

ボイストレーニングをネットで調べてみると、「横隔膜」ということがキーワードのように書かれている。通常の発声を胸式発声といい、腹から声をだすことを腹式発声というらしい。体育会系だと「腹の底から声を出せ」という言い方をよく耳にする。腹から声をだす、横隔膜を動かして声を出すと、体の中で大きな振動が起こるということだ。

そして、その振動が重要な役目をする。人間の体の6-70%が水分だと言われ、水分は振動をよく伝える。振動は脳に大いなる影響を与える。音楽もそうだが、宗教で木魚や鐘がよく用いられるのは、ある種の振動が人間の脳を安定させることを昔の人は経験的に知っていたからだろう。

例えば、頭の中であることを考える。それは思考としては、確実に意識される。しかし、声に出してその考えを話す、特に大きな声で話すと、その影響は頭の中で考えているだけより、遙かにインパクトが大きい。こころで「ありがとう」というより、声に出して「ありがとう」とはっきり言うと、気持ちがよいものである。頭の考えは、体に何も響かないので、勝手に暴走したり、分からなくなったりする。声に出して体で考えを理解できるようになると、少しは何かが違ってくる。カウンセリングというのは、何か考えをめぐらせることに意味があるような錯覚があるが、自分の考えを声に出すこと自体に意味があるのである。声に出すことだけで、理解が身体レベルまで広がり、考えがより安定するのではないだろうか。声を出すことで、体を感じるようになる習慣がついてくると、常に物事を頭だけではなく、体全体で理解し感じるようになるのだろう。そうなることで、表層的な理解から深い理解にができるようになるのかも知れない。

 

言葉は言霊というように、昔から重要な意味があるとされてきた。ものにそれぞれの言葉=音が与えられているが、それは何も偶然適当に与えられているわけではないだろう。その物に与えられた音に、何か人として重要な振動が秘められているなら、我々はもっと正確に言葉を声に出して生活すると良いのかも知れない。そもそも、我々はなぜそれがその音で表現されるのか分からないのだから。太古の昔から人類が果てしない年月をかけて、その音を発することを選択したのは、少なくとも我々の小賢しい屁理屈よりは、はるかに生物学的な意味があるだろうから。伝承された形や音はもっと大事にすべきなのだろう。

話が相当ずれてしまったが、声を出し、振動を感じることの重要さを感じてもらえたら幸いだ。
【2006/11/19】  この記事のURL | 心療内科関連 | ▲ top
言葉の力-「ハンドボール10月号」より

ハンドボール専門誌「ハンドボール10月号」にいいことが書いてあったので紹介しよう。  


言葉の力 文 久保弘毅


 「試合が始まってから終わるまで、つねに自分を『今』という時問に置くんだ。自分を過去に置いたり、未来に置いていると、いいプレーなんかできないぞ。
 例えば、後半が始まっているのに、いつまでも前半20分でのミスを気にしてるというのは、自分を前半の20分に置きっぱなしにしていることなんだ。 同じように、「負けたらどうしよう」と考えるのは、自分を試合終了後に置いているからだ。未来に自分を置いてしまったから、そんな考えに支配されてしまうんだ。
 過去にとらわれない。未来に不安を抱かない。心をつねに『今』という時間に置くのが大切なんだ。心の時間軸かぶれてしまったら、いいプレーを出せるわけがない。
 でも、人問は一人だと、どうしても心の時間軸かぶれてしまう。そんな時に声をかけて、過去や未来に行ってしまった仲間を『今』に引き戻してやるんだ。それが本当のチームワークだろ。
 時間軸かぶれそうになった仲間に、『今やることをやろうぜ』と声をかけてやれ。そうすれば、声をかけられたやつももう一度『今』に集中できる。そのために声が必要なんだ。意味のある声がほしいんだ。


 ハンドボールだけじゃないね。これはすべてに通じる言葉だよ。人は弱いので、過去への悔いや未来への恐れに振り回されて、今を生きられないものだ。病気になるとなおさら、その傾向が強くなる。そして、病気からの回復とは、過去と未来への思いを断ち切り、今を生きることができるようになることなのだ。病気になると、自分と向かい合わざるを得なくなるので、非常にきつい、嫌な思いを強いられる気分になるだろう。しかし、本当は、そういったことが、病気であるなしに関わらず、人が生きる上で重要なテーマなのだ。


 病気になったから考えざるを得なくなったのではなくて、病気になったから逃げ切れなくなったと言える。人は健康だと思って生きている時、必ずしも健康ではない。たまたま、自分の問題に直面せずいるだけだ。病気という壁をスルーできたとしても、老いや死という避けようのない壁が待っている。人は生きている間、死ぬ練習をしているようなものだ。そのことを強く考えさせられるのが病んだときだ。


 いわゆる健康だと思われている人を見てみればわかる。上の文章のように、心がぶれずに「今」を生きているひとがどれだけいるか?みな過去にとらわれないまでも、未来に向かってあくせくしているだろう。未来のために今を犠牲にしているだろう。別に健康なわけじゃない、たまたま、ぎりぎりまだバランスが保たれているだけだ。


 仏の教えは簡単だ。「執着を捨てよ!」ただそれだけだ。それはイコール「今を生きよ」ということだ。執着とは過去を取り戻そうとする気持ちや、未来をより良きものにしようとする気持ちのことをいう。厳しい勝負事の世界に生きている人は、心の一瞬のぶれが命取りになる。だから、今に心を集中する。そのために、日々精進する。


 たとえはものすごく悪いが、以前、プロのソルジャー「傭兵」の中でも、すごい人の言葉を読んだことがある。その人は言った「戦いの最中、戦場で死ぬかもしれないなんて、思ったこともない。ただ目の前にある作戦を遂行することだけだ」異常な集中力だ、見本にもならないし、ほめられたことでもないのかも知れない。しかし、それを読んだとき、上の文章を読んだのと同様の気持ちになった。「そうだよな、普通の生活だって同じ事だよな」と。


 普通の生活の中で、それほどの集中力を発揮することはできないし、そんなことを四六時中していたらえらいことだ。普段は後悔もするし、未来への執着もある、それで当然だ。でもつらいとき、苦しいとき、そういうときこそ、これを思い出してほしい。今に集中するのだ。そして、ぶれた心を今に引き戻してくれる人間関係を大切にしよう。

【2006/09/25】  この記事のURL | 心療内科関連 | ▲ top
マドリードの英断
やせ過ぎモデル禁止:マドリード市決定に反発、波紋広がる

ついにというはやっとというか、やりましたな、マドリード市!
やせを礼賛する文化と摂食障害の発症とは関係があるか?・・・あるにきまっとるだろう!反論する人はいう、「だけどみなが摂食障害になるわけじゃない!」と。なーにを間抜けなことを言っているのだ。例えば、覚醒剤が簡単に流通するようになった。しかし、だれもが覚醒剤におぼれるわけじゃない。だから、目くじらたてて取り締まるのはいかがなものかと言えるか?それは極論だな、じゃあ、アルコールは?たばこは?さらにさらにメタボリックシンドローム、生活習慣病などなど、それこそ、因果関係なんか明確ではなくても、関係ありそうなことはみなダメだしするじゃないか。
なのに、やせすぎモデルをメディアで垂れ流しすることは、明らかに摂食障害発症の危険因子なのに、なんでそれには甘いんだ!
わしは、この問題を1990年頃、日本でも摂食障害が爆発的に増えつつあったときに、必死で訴えてきた。珍しく論文まで書いた。芸能界のボディイメージが、青少年の間違ったボディイメージの見本になっていると。でも、そんなこと言ってもどうにもならんだろうと悔しい思いをしてきた。そして、摂食障害で苦しむ人たちが気の毒でならなかった。影響を受けやすい、敏感あるいは強迫的な人、周囲の情報からシールドをはって自分を保つこと力が弱い人、自分に自信が無くて人の基準で自分を取り戻そうとする人などが、文化に飲み込まれていく。
耐糖能(血糖値を一定にする力)が弱い人が、飽食の時代、運動量が少なくなった時代に、糖尿病を発症していくのと同じだ。内科疾患だと、文化的な問題を視野に入れて力を合わせてやっていこうとなる。なのに、なんでかしらんが、精神的な要素がからんだ疾患は、本人の問題だと追い詰められる。勝手なもんだ、世の中はな。そして、そういう方向性を先導しているのがマスメディアだ。結局、今のマスメディアは正しい方向を目指すのではなく、金になる方向を目指しているのだ。メタボリックシンドロームを何とかするのは金になる。やせを防止するより、やせすぎモデルを垂れ流ししていた方が金になる、ということだろう。くさった連中だよまったく。
マドリード市の英断はあっぱれであるが、さっそくマスコミが、やせすぎ問題を消し去ろうと必死だ。「BMI18以下何てやせすぎじゃない」「やせていたって元気ならいいじゃないか」などなど・・・アホか、まったく。
BMI=体重(kg)/(身長(m)の二乗 だ。
身長150cmなら40.5kg 160cmなら46kg 170cmなら52kg くらいだ。
つまり、それ以下だったら確実に月経停止が起こる体重だ。摂食障害の診断基準で判断すれば標準体重の85%以下で無月経が起こるので、それの体重をもって摂食障害の一つの要素と考えるわけだが、
150cmなら42.5kg 160cmなら46kg 170cm なら53.6kgなので、極めて妥当な数値であり妥当な判断である。モデルの人で、その数値をめぐってぎゃーぎゃーいっている人がいるようだが、元気な気がしているだけで実はもう摂食障害なんだよってことだ。元気ならいいじゃないかというのは、アルコール依存だろうが、仕事しているし元気だからいいじゃないかと言っている親父と同じだぞ!そういうのはダメだと思うだろ。
この問題になると、ついつい熱が入ってしまう。わしが長年取り組んできた、闘ってきたテーマそのものだからだな。

人権問題やらなんやら言われそうだし、非現実的だが、わしは若い人の摂食障害を減らすのは簡単だと思っていた。中学、高校の卒業資格にBMI18以上とか標準体重の85%以上という項目を付与すればいい。もともとやせている体質、家系の人はどーするんだって、そんなことも判断出来ないほど人はバカではないよ。ある基準には必ず例外がつきまとうのは生物の常だから。例外か病気かなんて判断が難しいわけ無いだろう。

とりあえず、マドリード市頑張れ、あなたたちの英断は立派だ!その一石がより大きな波紋を呼ぶことを期待している。
【2006/09/21】  この記事のURL | 心療内科関連 | ▲ top
八卦見-古人の知恵

わたしの叔母は、ある時から突然「力」を授かり、その後の多くの人々の力になるという運命を背負って生きた。力の源は誰かから受け継いだ「だるまさん」だった。私も、幼い頃から疑いもなく特殊な力のある「だるまさんの叔母さん」と信じていた。

叔母さんのやっていたことは次のようなことだ。
1.まず困った人が相談にくる。その内容を、十分時間をかけて、決して妨げることなく、言いたいことを全部きく。
2.その後、おもむろに、立ち上がり「だるまさん」に向かってお祈りを唱える。そして、どうしたらよいか「だるまさん」に尋ねる。
3.いろいろな解決法を叔母さんが「だるまさん」に聞く。そうすると、ある一つの方法を尋ねたときだけ「だるまさん」がふっと軽く持ち上がる。それ以外の方法を尋ねても決して上がらない。
4.おばさんは「だるまさんは~が良くないから、~しなさいと言っているよ」と教えてくれる。
5.そして、最後に御加持といって、般若心経を唱えながら、数珠をもった手で背中を中心にマッサージのようにほぐしてくれる。

やることは、以上のようなことだった。その一連の行為を神聖な気持ちで、皆が待ち、受け入れるという儀式だった。「だるまさん」が言うことはだいたい一緒だった。「家の○の方角が汚れている。そこをまず、清めて、その後、般若心経を○回唱えなさい」というものだった。「だるまさん」のいう方角には、なぜかいつも何か問題があったので、ああそういうことかと納得したものだ。そして、その後課せられる般若心経を唱える回数が尋常じゃない。何千回という回数だった気がする。一度に、そんなに唱えられるはずがない。毎日夜何回、一人で出来ないときは家族で分担して何回ずつとかやって、合計その回数になるように頑張っていた。

そうすると、不思議なことにたいていのトラブル、問題は解決していったものだ。そして、さらに「だるまさん」への信仰が深まり、何でもかんでも、困ったら「だるまさん」という風になっていた気がする。そして、ある時、その方法でも解決しない出来事に遭遇し、あるいは従ったのに、よい結果にはならなかったという経験をし、そこから離れていくのである。それに、叔母さんが高齢になり昔のようなパワーがなくなり、訪問者はどんどん減っていった気がする。

今になり、その出来事は何だったのだろうかと考える。私は、完全に近代科学教育に洗脳されて育ってきたので、何でも現代風に解釈したくなる。本当のことは、誰にもわからないけれど、あの方法はずばらしい技術だったと痛感するのである。

つまり、こういうことだ。
1.人の心は弱い。何か問題が起こったとき、何が原因なのかはっきりさせたくなる、というより、曖昧で宙ぶらりんの不安に耐えられない。そういうとき、余計なことをして、問題をこじらせていくのが世の常だ。
2.叔母さんは問題の原因を「○○の方角が汚れている」という誰も傷つかない、誰にせいでもない出来事に帰結する。そうすることで、とりあえず、余計なことを考えずにすむわけだ。
3.そして般若心経を唱えさせる。しかもものすごい数だ。1000回として、一日100回で10日、10000回だと100回で100日・・。一日100回般若心経を唱えると、夜は自然に過ぎていく、余計なことを考えずに時が過ぎる。そうやって何日もすごす。
4.たいていの物事は、余計なことをしなければ、自然に何とかなっていくものだ。不安に負けて、余計なことをするから、こじれていくのだ。それを、こういった、利害関係のない、誰のせいでもない、何かしら良いことをしている気になることをやり続けることで、時間を稼ぐわけだ。

誰のせいでもない原因に帰結し、神聖な気持ちになれる行為で時間を過ごす、そうしている間に、何とかなることは自然になんとかなる。ほとんどの問題は、こうして何とかなっていくものなのだろう。こんな考え方は、罰当たりなことなのかもしれない。何かもっと違う力が作用していたのかもしれない。

ただ、思うことは、今の病院での治療に、これほどの力があるだろうかという疑問だ。理屈ばっかりで、思考をこねくり回し、考えを変える技術などなど、そんな行為にはさらなる疑問や理屈が増殖するだけだ。私たちが無くしてしまった方法は、考えないようにする技術、煩悩を行動で昇華する技術(お百度参り、水かぶり、滝行、五寸釘とわら人形などなど)ではないだろうか。人の心は思うようにいかぬ物、自分が思っているより、心は遙かに複雑だ。心のバランスを取る方法は、実はこういった神秘的な領域にヒントがあるのだろう。闇に光を照らし、何もかも表に引きずり出し、理屈でこねくり回し、科学的に解釈する。そうやって、闇の力をおとしめてきたことが、結果として自分を追い詰めていることにそろそろ気づくべきだろう。そうしないと、そのうち偽物の新興宗教に飲み込まれていってしまうぞ~、気をつけろ!

【2006/07/29】  この記事のURL | ホリスティックな人々 | ▲ top
「CUBE」を見た

hana1.jpg以前「CUBE2」という映画をみた。言われなく、四角い部屋に閉じこめられて、脱出しようとしても、トラップにひっかかって死んでしまう。登場人物は全員助からないという救われない映画だ。前作「CUBE」というのが、マニアの間では評価が高いことは知っていたが、見る機会がなかった。最近、「CUBE ZERO」という映画のDVDがでて、それは「CUBE」の前作に当たるというふれこみだったので、とりあえず見た。ネタは同じようなもので、やはり救われない映画だった。そこまで見たら、第一作目の「CUBE]を見るしかない。DVDがあることがわかったので、レンタルして見た。内容はほとんど同じで、作成された時代の違い、予算の違いを感じさせる以外、ネタはほとんどいっしょ(というより、それが元になって、CUBE2 CUBE ZEROができた)、救われない映画だった。

その映画「CUBE」の内容はともかくとして、映画の中の台詞にちょっとしびれたので、紹介しよう。

閉じこめられた人同士は、全く面識はない。ともに行動する内にお互いの素性を徐々に知っていく。メンバーの中に、警察官がいて、もう一人、やたらトラップに詳しい男がいて、「なんでおまえはそんなにトラップに詳しいのか」と質問し、ふとその男の名前をみて、警察官は思い出した。そう、有名な脱獄犯だった。いくつもの難攻不落の刑務所を脱獄してきた、脱出の達人だったのだ。それで、一同は喜ぶ。この男に従っていけば、脱出できるかもしれない!と。

その時、男が語る言葉にしびれたというわけだ。前振りが大変長くなりました。その台詞とは

「考えるな(考えすぎるなだと思う)、想像もするな、目の前のことだけを考えろ。脱出は難しい。自制心が必要だ」

という台詞である。なんで、こんな台詞にしびれたかというと、私が今、もっているイメージに近かったからだ。病気になるということは、まさにトラップに引っかかったような心境だと思う。「何で自分だけが、どうしてこんなことに」という思いにさいなまれるだろう。そして「ここから、どうすれば出られるのか、本当にでられるのか、もはや助からないのではないか」そんな気持ちにもなるだろう。まさに迷路にはまったのと同じイメージではないか。

通常、原因探しをしたり、いろいろな方法を考えたり、する前から、いろいろ想像したり、現実と想像の区別がつかないまま、どんどん気持ちは不安定に、そして悪循環になっていくと思う。普通の治療のイメージだと、「どうしてこうなったのかよく考えましょう」「あなたの生い立ちの中に、きっと答えがあるはずです」「これからどうしたらよいか、よく考え、こうなりたい未来をイメージして、ポジティブに考えましょう」などなど、言われたことはないだろうか。

確かに、場合によっては、そのやり方が有効な場合もあるだろう。しかし、難しい病態であればあるほど、そういったやり方は有効でないどころか、問題をこじらせることが多いと思う。難しい病態を、脱出困難なトラップと置き換えてみると、映画の登場人物がいう言葉が胸に響く。「あれこれ考えすぎるな、あれこれ想像するな、目の前の事だけ考えろ(今、目の前にあることを行うことに集中しろ、それだけやり遂げることを考えろ)。回復は簡単ではない、自制心が必要だ(決してあきらめず、自分の感情に飲み込まれたり、振り回されたりせずに、行動しろ、そうすれば、必ず脱出できる!)。」そんな感じだ。

私は、本当にそう思う。普段から始終、一日中、そんな緊張感をもって、行動しろと言うことではない。われわれは、決して、監獄に閉じこめられているわけでもないし、命をねらわれているわけでもない。ただ、時として、心が揺らいだとき、よからぬ考えに流れそうになったとき、この言葉を思い出して、心の揺れを最小限にとどめようではないか。

「考えるな、想像もするな、目の前のことに集中しろ。脱出は難しい、自制心が必要だ」

【2006/07/09】  この記事のURL | 未分類 | ▲ top
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