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子供の教育

全国一斉学力テストが43年ぶりに施行されたそうな。そうか、私が小学校に上がる直前までやっていたんだ。学校の時は、学内の一斉テストがしょっちゅうあって、良い点を取ると星一つって感じで、それが何個かたまると、朝礼の時間に「十回賞~五十回賞」とかいって、表彰されていたな。中学に行けば、中部統一テストとかいうのがあって、高校を選択するために利用されていた。学校の中間テストや期末テストでは順位が全部張り出された。何番以内に入ることを目標に頑張ったな。そんなこんなでテストばっかりだった。競争の激化が・・・とかいっているが、昔はテストばっかやっていたけど、そんな風にならなかったぞ。

美術も、音楽も、体育もテストがしょっちゅうあって、自分の苦手な科目ではびくびくしながら過ごしたもんだ。意外なやつが異常に歌かうまかったり、何か特殊能力があったりして、クラスメートを驚かせたりした。当然、クラス内では、自然にそれぞれの分野の序列ができる。計算力では○○、漢字の書き取りは○○、暗記力は○○、走るのは○○、器械体操は○○、球技は○○、美術は○○、歌は○○、書道は○○・・・てな具合で、それぞれできるやつは一目置かれていたわけだ。何にも目立った能力がなくても、それはそれで普通に生きていた。いじめられるやつもいたが、いじめられるやつはブームみたいなのがあった気がするな。ブームが過ぎ去れば、そいつも普通に仲良くしたりしてね。別に大人が口を挟まない、介入しない状態で、何となくバランスがとれていた。

ただ、言えることは先生も、大人も怖かった。大人に怒られないように、怒られない範囲で悪さをしていたわけだ。見つかったりすると、次の日に学校にいくときはどきどきだ。どういう処罰がくだされるのか・・どういう処分になっても、子供は大人に文句はいわなかった。言えるはずがなかったわけだ。

それがいつの間にか大人が子供におもねるようになった。子供の顔色をうかがうようになったんだな。コンビニや他の店のレジで不思議な光景を目にするね。子供が買い物にくると、大人が、○円でございます。お買い上げありがとうございました。見たいなやりとり。昔なら、「おばちゃんこれいくら?」「○円だよ。はい、ありがとね。気をつけて帰るんだよ」みたいな、子供に対しては大人の立場で接したものだ。

どうして大人が子供にこびるようになったのかね。どうして子供に頭が上がらなくなったのかね?

この問題を考える時、いろいろな立場の人がいろいろな角度から意見をいうので、まあ何が正しいのかよくわからんし、それぞれみなの言い分は正のだろうけど、一番大きな問題はこれじゃないかと思うことがある。

今の産業構造の問題だ。漫画、アニメ、ゲーム、インターネット、メール、携帯電話、ファッション・・・などなど、みな子供を食い物にしているものばっかりが景気がいい。子供産業がオプションではなくて、主産業になっていやがる。子供を出汁にして商売しているって事だ。

それが教育上どういう影響があろうがお構いなしだ。あの手この手で売るわ売るわ・・・最悪の産業は携帯電話だろうな。子供らしさを完全に崩壊させたアイテムだ。

携帯電話、携帯メールがなかったら、子供は完全に大人の管轄下に置かれることになる。昔、友達からの連絡といえば家の電話にかけてくるのが当然だった。ということは親がしらないところで何かするのは困難だということだ。かける方だって、好きな女の子に電話するっていえば、悪友何人かに励まされて、公衆電話から「・・・あの・・○○さんのお宅ですか。同級生の○○と言いますけど、○○さんをお願いします・・・」と言えるかどうか、最後まで言わせてもらえるか、取り次いでもらえるか・・命がけだ。長電話でもしようものなら、親が横でイライラしはじめたり、聞き耳をたてていたりで落ち着かない。電話が終われば「誰から?」と当然聞かれるわな、ごまかしきれるもんじゃないわな。
というわけで、大人文化の端っこの方で、大人の許してくれる範囲の行動しか、子供にはゆるされていなかったわけだ。

それが今はどうだ。電話だって内緒だ。電話代が高くなると怒られるが、メールなら楽勝だ。ご丁寧にパケホーダイとかだったら、何をどれだけやったって誰も知るよしもない。メールは電話ほどの緊張感はないからやりやすいしな。
というわけで、心を砕き、心をひやひやさせながら、勇気を振り絞って、大人の目をかいくぐり、言い訳を考えつつ、一か八かの行動をするというような心のトレーニングはできなくなったってわけだ。それに電話や手紙じゃあ、リアルタイムのコミュニケーションはできない。夜中は電話はかけれないし、誰がでるかわからないし、相手がいなきゃ終わりだし、手紙はいつとどいたのか、よんでもらえたのか、返事がくるのか、待つのに時間がかかる。それに筆跡もまるだしだ。漢字しっているかどうか教養も丸出しだ。

そういう子供が心を砕きながら大人のまねごとをするトレーニングの機会を、便利な道具がことごとく奪っていってくれるというわけだ。子供の弱みにつけ込んで、子供が飛びつく商売をどうどうとする。

健康にわるいのでたばこは吸いすぎるなといって、たばこをうる。アルコール依存症の怖さをうってながら、簡単にアルコールを売る。さらにさらに、命の大切さを訴えながら武器をうる・・・・そういうのと根っこは同じだ。きれい事をいっても、腹ん中はみえみえよってのが、子供にバレバレで、そんなんでどうやって子供に威厳がもてるのか。

子供をだまして産業が成立する社会のどこに教育があるのか、バカバカしくて話にならん。昔は、どんなに困っても子供を出汁にするような商売はゆるされないという文化があった。子供はきっぱり大人社会から差別されていたのだ。子供を汚いものから守り、より健全に育ってほしいから。

子供を出汁にする商売や、金貸しなどなど、昔は外道の商売とされていたものが、表舞台で一番景気が良く輝いている。それに目をつぶって、一斉テストがどうの、いじめがどうの、競争がどうのなどどいう議論はどうなんだ。そういう本質的な問題を解決できもしない大人に、何ができるというのか。

まあ、そんなことを言っても社会は変わらないので、せめて自分の手の届く範囲ではけじめのある文化をつくりたいものだ。実際できてないけどね。なんとかしたいね。

【2007/05/08】  この記事のURL | ホリスティックな人々 | ▲ top
男はつらいよ
しばらく前から昭和ブーム(?)が続いている。編集や制作に携わる人間がわしらと同じくらいの世代の人間になったということだろうか。
わしも昭和文化が懐かしくてたまらない一人だ。もともと派手なことが嫌いな人間なので、昭和の裸電球くらいの明るさに、胸が苦しくなるくらいいとおしさを感じていた。
随分昔に、長島温泉(今は名前も形もかわってしまったな)のプールのエリアで昭和展をやっていて、そこには師勝町歴史民俗資料館から借りてきた物、街並みが展示されていて感動した。
その後、師勝町歴史民俗資料館に何度かいった。本屋にも昭和文化を扱ったものが以前からちらほらあったが、だんだん増えて、今は頭打ちになった気がする。その書物もほとんど手に入れて、コレクションにしている。
後はDVDだな。昭和と戦争、昭和のニュースなどがDVDになっている。それもいくつかはコレクションして、時々見ている。
映画では三丁目の夕日に代表される昭和をネタにしたものがいくつかでた。一昔前に、クレヨンしんちゃんの映画で「モーレツおとな帝国」ってのがあったが、あれは感動した。映像と、その当時はやった音楽を一緒に流されると、たまらない気持ちになる。
これが年をとるということなのか・・死期がせまっているのかと不安になることもある。それくらい、わしは今、昭和文化に飢えている。
音楽も以前は60-70年代のフォークが一番好きだったが、昭和歌謡曲が心に響くようになってしまった。
そもそもそれは同時代のものではないのにね。自分が子供の時、「懐メロ」という番組がしばしばやっていて、親が懐かしそうに見ていた。音楽自体はそういう理由で知っているわけだが、流行していた時のことは知らない。それでも幼少期の記憶ってことなのだろうな。
「カーテンコール」って映画で「いつでも夢を」がメインで使われていたが、それが耳について離れなくなってしまった。
懐かしついでに、タイガーマスク、あしたのジョー、アタックNo1、空手バカ一代など大好きだった曲を、TSUTAYAで借りてきてウオークマンで聞いている。全く極端なことだ。
映画に話を戻すが、今作られる昭和を題材とした映画が、どうもピンとこない。昔の映像自体をみると、心がうずくのだが、似せて作った映像はどうもよくない。雰囲気や物、服装、建造物を再現しようとしている努力は分かるが、何が違うか・・・何かが違う。それは、暗さと汚さと人の顔つきだ。
暗さは人工的に作り出そうとしているが、作られた物と、そうでしかなかったものの差は大きい。汚さ・・これが再現できない。
ある意味、ここ何十年かの歴史は、「デジタル化」という言葉で表現してよいのではないか。デジタル化とは、ありのままの情報から、「自分に必要な物だけを抽出し、コンパクトできれいに見えるようにする」ことだとわしは思う。
見かけ上はきれいになったが何か物足りない。CDのようにデジタル化された音楽より、ドーナツ盤レコードの味わい、それより生の演奏、さらに手作りの楽器による音・・などなど。デジタル化によりきれいで単一化され、再現性には優れるが、ものたりなくなり、アナログ的なものは一期一会というか二度と再現されることがない。
話がそれたが、本物の昭和はアナログの昭和で、今作られた昭和はデジタルの昭和っていうのが分かりやすいかな、余計わかりにくいか。
それがだね、最近、ふらふらっと吸い寄せられるように「男はつらいよ」を借りてきて見たのだよ。感動した。そこにはアナログの昭和があったよ。これこれってかんじ。この色、この形、この顔、この声、このセリフ、この言い回し、このギャグ・・まさにこれだ!と感動した。
第一作が作られたのが1969年と言うから、まさに同時代だ。1969年、人類が月面に降り立ち、万博が近づき、アニメでは、タイガーマスクとアタックNo1が始まった年。そうか、泣けてくるはずだ、全くもー。
いやー年をとったんだな、懐かしくて懐かしくて泣けてくる。
他にHPを立ち上げて、昭和文化保存の会をいつか作りたい気分。
心療内科には何も関係ない話だったね。
【2007/04/30】  この記事のURL | 雑感 | ▲ top
環境問題
日曜日の午後1:30ー3:00に、やしきたかじんが司会をする「そこまでいって委員会」という番組がある。わしが一番楽しみにしている番組だ。
スポンサーが少なくて、大人の事情による制限がないから、言いたい放題言えるらしい。

毎週、興味深いテーマについて、言いたい放題なのだが、今週は環境問題を取り上げていた。名古屋大学教授がでていた。「環境問題はだまされやすい」という内容の本を出した人らしい。

*ダイオキシンはそれほど人間に害はない。
それより、ダイオキシン発生をおそれて、個別の焼却を禁じて、ごみ収集をする、しかも分別する。それには何の意味もない。それどころか、そっちの方が環境に悪い。
*ペットボトルは回収しても6%しかリサイクルされていない。本当のリサイクルは使い回しすることだ。

*地球が温暖化して、北極の氷が溶けて海面が上昇するというのはウソだ。温暖化すると、南極の氷はむしろ増える。温暖化→南極北極の氷→海面上昇→ツバルを初め水没する国がでてくる。などという論理には何の科学性もない。
*今は第二氷河期と言われていて、地球の歴史からすれば、寒い時期であり、それ故赤道に近い所に一番人口が密集しているのだと。

などなど、興味深い話だった。
環境問題は無条件に大事で、環境保護的言動に逆らえば、先生曰く「売国奴」と非科学的に批判されるような、聖域になってしまっていることが問題だ。この先生は純粋に科学者で、環境問題をどうするかと言っているのではなく、その論理はおかしいだろうと言っているだけだ。だから、それをもって「じゃあ環境問題は考えなくてもいいのか」とヒステリックに反応してしまう輩は、狂信的でやばいということなのだ。
それが正しい、その方向は正しいとなったら、科学性より思想的に陥る性質が人間にはあるので注意が必要だ。

で、わしはそんなことが言いたいわけではなく、環境問題についてちょっと考えてみたことを書きたい。

今、地球環境は破壊されつつあり、あとどれだけかで地球はダメになる。人類が地球を壊してしまう、だから環境を保護しなくてはいけない・・などという論理に???と思うのだ。
人類が地球を破壊するからいけないだって?そんなばかな、何十億年も生き続けてきて、これまでに幾多の生物が生まれては消え、消えてはまた生まれを繰り返してきた地球、人類の誕生なんか、その歴史の前にはごみくずくらいだろう。そんな人類が地球を滅ぼすだって?ホントにそう思う???。
そんなわきゃねーだろ。地球だってバカじゃない。何十億年も続いてきたんだぜ。都合が悪くなったら、自分の上に乗っかっている物を排除してバランスを保とうとするにきまってるじゃないか。

このままでは地球を壊すのではなくて、このままでは地球の機嫌をそこねて人類が排除されるからやべーんじゃねーの。地球様のご機嫌をそこねないために、やり方変えないとそろそろやばいよってことだろ。地球なんてびくともするわけないだろ。
地球がだめになるのは、親である太陽様の寿命が尽きてきたとか、太陽様のご機嫌が斜めになったときだろう。
地球の出来事は、きっと人類の思いなどお呼びもしない、深い深い事情によって変化しているのだろうね。それによって、暑くなったり寒くなったり、海面が上がったり下がったり、気候がどうこうなったりしているんだろう。

だから環境問題を考えなくてもいいかって?そうじゃないよ、わしが言いたいのは、逆の発想が必要だということだ。地球様のご機嫌に合わせて生きる工夫をしないとやばいぞということ。地球様が気候を変えたり、温度を上げたり、海面をあげたり、地震を多発させたりするようなら、その上に間借りさせてもらっている下僕の人類は、その事情に合わせた生き方に変化させていかないといけないってことだ。
そして、それは広い意味では今の環境問題対策とつながるだろうが、ペットボトルの回収で何とかなる話ではないということだ。

心の問題でもそうだが、自分がやっていることが原因で問題がおこるような錯覚に陥る。しかし、実際は、自分の体の事情と自分の行動に不協和音が生じて問題が起こるのであり、体を大事にして、体に合わせた生活をしないといけないよというものすごくシンプルな真理を我々は忘れているんじゃないかな。
問題がおこると、体を大事にするのではなく、過去をさかのぼり、親子関係がどうとか、トラウマがどうとか、本当の自分探しとか、・・何か今の環境問題への反応の仕方ににてないか?
まあ、基本に立ち返ろうということだ。小難しい原因探しより、今の生活をもっと規則正しくとか、食事、睡眠、休息とかベーシックな課題に取り組む方が先でしょってこと。

でも名大の先生の話はためになったよ。本買ってよみたいな。
【2007/03/26】  この記事のURL | 雑感 | ▲ top
成人式に思う
以前ほどではないが、今年も成人式で大暴れした輩がいた。そして恒例のようにテレビでは、成人式をどうすべきかの議論が、しばらく続く。そしてまた、話題に登らなくなる。話題にすることが目的で、具体的な対策なんか煮詰める気は初めからない。

だいたい、大暴れ事件があったその日に、かつて大暴れしたOBのインタビューを流している。対策なんかより、面白おかしく報道する気満々だ。どうせ一部しか報道しないから、我々は成人を向かえる人達全般のことが分かるわけではないが、さも「最近の連中は何を考えているんだ」と思わせる報道ぶりだ。それと対比して、夕張の成人式を取り上げ、健気さを強調する。上げたり下げたり忙しいことだ。ニュースは、中立であるという話を学校では教えられたが、そんな大ウソを教えていいのか?

まあ、そんなことはどうでもいいのだが、成人式がなんでこう成ってしまったのかという問題だ。形式的には、我々が参加した約25年前の成人式とそれほど変わらない気がする。いつからこんなことをしているのだろうか?もっと昔はこんなに大規模にはしなかったろう。家の近所で、知っている叔父さん叔母さんがうろうろしている場所では、さすがにそんな不埒なことはできんだろう。

となれば、かつて、公共事業として大きな市民会館を造り、そこで、地元出身の政治家が、選挙権をもったばかりのバカ者どもに、自分のイメージを刷り込もうというスケベ心で始めたってーのが実態じゃないのか?(そう思って、調べてみたら、起源自体は健全な物だったが、やはり途中から政治の具にされていったことが分かった。詳しくはホームページ参照、大学の卒論だろうが、よくしらべたな~ http://www.mgu.ac.jp/~jfmorris/Sotsuron/2001/IshikawaNanae/Ishikawa.htm#成人式の成立

ことほと左様に、今起こっているさまざまな問題は、かつて、誰かの都合のよいように始めたことが、時代の変化の中で錆び付いてきて、より動物に近い輩がその状況に単純に反応してしまって、結果としてそいつらが自分の意志でやっている気になっているだけで、一歩引いてみれば踊らされているだけってことじゃないのか?

教育だってそうだろう、戦後のトラウマに乗じて、左翼の連中が、反日、反体制教育を、次世代の無意識に繰り込もうとしたら、思いの外、物質的に豊かになり過ぎて、ただだらし無く権利だけを主張するバカ者を大量生産してしまったってことじゃないのか。

今の現象は、今起こっている訳じゃない。今に続く、過去の集大成ってことだろう。結局、自分の都合のいいスケベ心にはバチが当たるということだ。じゃあ、なんでそのあおりを無垢な私達が浮けなきゃいけないかって?だって、その私達だって、そういう如何わしさに反対して戦ってきた訳じゃない。指をくわえて見ていただけだから、みんな共犯なんだな。
そう書きながら、自分を振り返り、我が襟を正そうと思いますわ。
【2007/01/08】  この記事のURL | 未分類 | ▲ top
いじめ問題に一言
今、世間をにぎわせている問題の一つは「いじめ」問題である。連日、様々な立場の人が様々な意見をいい、激論している番組も多い。

結局、誰も当事者ではないし、当事者であっても、自分の体験から全体の解決策を導くには無理がある。

私とて同じ穴のムジナで、偉そうなことをいうつもりはないが、ちょっと引っ掛かることがあるので批判覚悟で書きます(とはいえこのブログはコメントを受け付けていないので、批判のしようがないだろうが・・)。

「いじめは昔もあった」この台詞にひっかかるのだ。昔もあったかどうかということではない、昔もあったのだから解決は簡単だとか、昔のやり方を模倣し解決策をさぐるというやり方にひっかかるのだ。いわく「昔は傍観者が少く止める人がいた」、いわく「昔は大人に権威があり、先生たちが怖かった」、いわく「昔のいじめは今のように陰湿ではなかった」・・・などなど。

話が飛躍するように思われるかもしれないが、同じような現象がいくらでもあるのだ。「戦前は糖尿病なんか多くなかった」「生活習慣病」一般に言えることだ。確かに多くはなかっただろうが、確実にその病気はあった。「アレルギー性鼻炎」は今や国民の30%以上に認められると言われるが、これだって、昔は少なかった。環境や食習慣の変化という人々が受け入れやすいことが理由としてあげられるので、何となくそういう物かと思っている。「昔もあったけど、こんなに多くなかったよね~」という点では同じでしょ。それに、原因が割と明らかなのに、どうしようもない。患者さんは増える一方です。こういうことに対してこそ、昔のような食習慣に変えるとか、環境整備をするとかすればいいのに、分かっているのにできないじゃないか。だから、いじめは昔もあった・・教育のゆがみを修正して・・・とか、子供たちにメッセージを送って解決に近づいているような簡単な話にしようとするのは胸くそが悪い。

まあ、こういった病気と、いじめと比較されても困るだろう。では摂食障害はどうか。1980年以降、西洋文化圏を中心に爆発的に増えた。とはいえ、この病気は昔からあったのだ。それが増えたことで目立ってきたのだ。明らかに、本人たちの意志を越えた「病的強迫観念」に突き動かされ、病気の世界にからめとられていく。しかし、増えかけた当時、そして今でも多くの人(専門家を含め)は、「本人が好きでやっている」「治す気がない」「甘えている、現実逃避だ」などと思い込んでいる。そう思いたいのだろう。そう思っておれば、自分が関与する必要がないからな。

関与するとなると、無理に食べさせようとしたり、しかったり、脅迫したりするだけだ。そして言うことを聞けばそれみろと言われ、言うことを聞かなければ「治す気がない」といって投げ出される・・・。

よくにていると思わないか?不登校、ニートなんかも似た現象だ。そして、もっと重要なことは、どの問題ひとつ取っても、いまだに何の解決も対策もできていないということだ。いじめ問題だって同じだ、簡単な処方箋なんかある訳がない。なぜなら、歴史的に積み上げてきた様々な問題点・矛盾点の集大成なんだから。

摂食障害が問題になったとき、やせを礼讚する社会文化的背景が大いに関与していると言われた。それなのに、いつまでたっても痩せたモデル、女優を垂れ流しているじゃないか。マドリードでBMI18以下のモデルは使わないと大英断を下したが、それとてマスコミは重要性を値下げして、ちゃかしてしまった。摂食障害ほど分かりやすい問題だって、何一つ対策をこうじられないのだ。頻度だって、いじめに勝るとも劣らないのにな。

それと、最も大きな間違いは、いじめ問題がいじめられる人をどうするかという問題になっていることだ。これはDV(ドメスティックバイオレンス)の時と同じだな。被害者の女性をどうするか。にがす、シェルターにかくまう・・それは一番優先事項であるが、解決策ではない。本質的問題は、暴力依存症の男をどうするかということだ。いじめもそう、集団依存症、異質恐怖症、孤立恐怖症の子供をどうするかということだろう。

「いじめた奴を厳しく罰すればいい」そんな簡単な問題だと思っていると、余計に問題をこじらせるぞ。もはや、誰ひとり無関係な人間はいない、社会の構造的な問題だ。いじめられる少数派が、自爆テロのように、命懸けで逆襲してきた今、その行為すら「意気地が無い」とか、「生きる勇気をもとう」とか、「君は一人じゃない」とか寝ぼけたことを言っていると大変なことになるぞ。ましてや「愉快犯だ」などと何の証拠もない自分の思いこみで甘い対処をしているともっと大変なことになる。なにせ、迫害されている側は、少数派であっても命がけだから。それほどの緊迫感はやっている側にあろうはずがない、ましてやテレビ越しに高見の見物をしている大人にもない。唯一緊迫しているのは、一部の心ある教師であろう。気の毒なことに、世間はそういう教師を応援するどころか、教師までも迫害し始めた。とうてい無理な状況に追い詰めて、解決しろと高みの見物をしている連中は一番罪深い。

いじめにも様々なレベルがあるから、一緒くたにして語るのは危険だ。厳罰に処するという悪童もいるだろう。しかし、それこそ、昔からそういうやつはいたし、これからもいるだろう。問題は、その周辺で時代の影響を受けて連鎖反応をしている人々である。いじめをどうするかも大事だが、長期的には、集団依存症、異質恐怖症、孤立恐怖症を何とかしないとまずいぞ。まあ、話が止まらなくなるのでやめておくが、携帯電話とインターネットが人間の想像力を越えて社会と人の心の中に入り込んでしまったことは、まさに「予想外」の危険因子だろうな。これをどう制御できるか、これを制御できない限り解決はないだろう・・・と勝手に思う。生活習慣病をどうするか何て、当事者は大人なんだから自分で解決しろ。子供の問題は大人の責任だよ。
【2006/11/24】  この記事のURL | 未分類 | ▲ top
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