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終戦の日に思ったこと
お盆を挟んで、いろいろ忙しく、ブログの書き込みがぱたりと止まってしまった。これではいかんと思いつつ、時間がない・・。しかし、こういうものは無理してやるものではないだろうと思い(自分に言い訳して)今に至ってしまった。書きたいことはいっぱいあるのだけどね。

今回は忘れないうちに終戦の日に思ったことを書いておく。命というのは誠、ほんの偶然の上に成り立っているのだなという話。

お盆なので、さすがに短時間とはいえ実家に帰った。その日は地元の花火大会だ。それが始まるまで、父親と話をした。父親も年を取ったので同じような話ばかりなのだが、戦争体験の話は貴重なので、息子(孫)には聞かせておきたいという思惑がある。

昔から聞いていた話だったが、今回、あらためて聞いたら今まで知らなかった新事実が判明し、さらに命の不思議さを実感した。

父親は大正15年(昭和元年)生まれなので、19歳で終戦を迎えている。16歳くらいの時には有名な海軍の武器製造工場である豊川海軍工廠で働いていた。戦況も悪くなり、未成年も志願兵としてかり出される流れになっていった。父親は17、8歳の時、志願兵として軍に入隊した。色弱なので普通なら軍には不適格だったのだが、通信兵として徴用されたそうだ。そのとき、豊川の工場長が父親に言った「おまえは長男だろう、どこにいても奉公はできる。志願せずにここで働け」と。それでも、父親は志願して入隊した。このときが若年者の志願兵徴収の最後だったらしい。

そして、終戦も近い昭和20年に豊川海軍工廠は激しい空爆を受けて多大な犠牲者をだした。志願した父親が生き残り、残れと言った工場長が亡くなられた。
さらに、東京で訓練をうけた後、広島への配属が決まっており、広島に向かう途中、特殊爆弾が落ちたときき、引き返すことになったという。

父親は貧乏だったので、上の学校に行きたかったがいけず、尋常小学校卒だ。もし、学校にいっていたら学徒動員の世代である。
もう少し若ければ、志願兵として軍にいくことはなく、豊川海軍工廠にいたはずである。そして工場長の言うことを聞いていれば、空爆の被害に遭っていただろう。
そしてもう少し年が上だったら外地に出兵していただろう。
また広島への配属がもう少し早ければ、広島で被爆していたかもしれない。
それらの偶然が重なってかろうじて、今生きている。父親が戦争で死んでいたら、私も私の子供も何もこの世に存在しないわけである。

そう考えると、今ここにこうしていること自体が、ものすごい運の良い、奇跡的なことのように思えてくる。
命というのは、本当に不思議なものだとつくづく感じた終戦の日であった。
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【2005/08/28】  この記事のURL | 未分類 | ▲ top
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