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いじめ問題に一言
今、世間をにぎわせている問題の一つは「いじめ」問題である。連日、様々な立場の人が様々な意見をいい、激論している番組も多い。

結局、誰も当事者ではないし、当事者であっても、自分の体験から全体の解決策を導くには無理がある。

私とて同じ穴のムジナで、偉そうなことをいうつもりはないが、ちょっと引っ掛かることがあるので批判覚悟で書きます(とはいえこのブログはコメントを受け付けていないので、批判のしようがないだろうが・・)。

「いじめは昔もあった」この台詞にひっかかるのだ。昔もあったかどうかということではない、昔もあったのだから解決は簡単だとか、昔のやり方を模倣し解決策をさぐるというやり方にひっかかるのだ。いわく「昔は傍観者が少く止める人がいた」、いわく「昔は大人に権威があり、先生たちが怖かった」、いわく「昔のいじめは今のように陰湿ではなかった」・・・などなど。

話が飛躍するように思われるかもしれないが、同じような現象がいくらでもあるのだ。「戦前は糖尿病なんか多くなかった」「生活習慣病」一般に言えることだ。確かに多くはなかっただろうが、確実にその病気はあった。「アレルギー性鼻炎」は今や国民の30%以上に認められると言われるが、これだって、昔は少なかった。環境や食習慣の変化という人々が受け入れやすいことが理由としてあげられるので、何となくそういう物かと思っている。「昔もあったけど、こんなに多くなかったよね~」という点では同じでしょ。それに、原因が割と明らかなのに、どうしようもない。患者さんは増える一方です。こういうことに対してこそ、昔のような食習慣に変えるとか、環境整備をするとかすればいいのに、分かっているのにできないじゃないか。だから、いじめは昔もあった・・教育のゆがみを修正して・・・とか、子供たちにメッセージを送って解決に近づいているような簡単な話にしようとするのは胸くそが悪い。

まあ、こういった病気と、いじめと比較されても困るだろう。では摂食障害はどうか。1980年以降、西洋文化圏を中心に爆発的に増えた。とはいえ、この病気は昔からあったのだ。それが増えたことで目立ってきたのだ。明らかに、本人たちの意志を越えた「病的強迫観念」に突き動かされ、病気の世界にからめとられていく。しかし、増えかけた当時、そして今でも多くの人(専門家を含め)は、「本人が好きでやっている」「治す気がない」「甘えている、現実逃避だ」などと思い込んでいる。そう思いたいのだろう。そう思っておれば、自分が関与する必要がないからな。

関与するとなると、無理に食べさせようとしたり、しかったり、脅迫したりするだけだ。そして言うことを聞けばそれみろと言われ、言うことを聞かなければ「治す気がない」といって投げ出される・・・。

よくにていると思わないか?不登校、ニートなんかも似た現象だ。そして、もっと重要なことは、どの問題ひとつ取っても、いまだに何の解決も対策もできていないということだ。いじめ問題だって同じだ、簡単な処方箋なんかある訳がない。なぜなら、歴史的に積み上げてきた様々な問題点・矛盾点の集大成なんだから。

摂食障害が問題になったとき、やせを礼讚する社会文化的背景が大いに関与していると言われた。それなのに、いつまでたっても痩せたモデル、女優を垂れ流しているじゃないか。マドリードでBMI18以下のモデルは使わないと大英断を下したが、それとてマスコミは重要性を値下げして、ちゃかしてしまった。摂食障害ほど分かりやすい問題だって、何一つ対策をこうじられないのだ。頻度だって、いじめに勝るとも劣らないのにな。

それと、最も大きな間違いは、いじめ問題がいじめられる人をどうするかという問題になっていることだ。これはDV(ドメスティックバイオレンス)の時と同じだな。被害者の女性をどうするか。にがす、シェルターにかくまう・・それは一番優先事項であるが、解決策ではない。本質的問題は、暴力依存症の男をどうするかということだ。いじめもそう、集団依存症、異質恐怖症、孤立恐怖症の子供をどうするかということだろう。

「いじめた奴を厳しく罰すればいい」そんな簡単な問題だと思っていると、余計に問題をこじらせるぞ。もはや、誰ひとり無関係な人間はいない、社会の構造的な問題だ。いじめられる少数派が、自爆テロのように、命懸けで逆襲してきた今、その行為すら「意気地が無い」とか、「生きる勇気をもとう」とか、「君は一人じゃない」とか寝ぼけたことを言っていると大変なことになるぞ。ましてや「愉快犯だ」などと何の証拠もない自分の思いこみで甘い対処をしているともっと大変なことになる。なにせ、迫害されている側は、少数派であっても命がけだから。それほどの緊迫感はやっている側にあろうはずがない、ましてやテレビ越しに高見の見物をしている大人にもない。唯一緊迫しているのは、一部の心ある教師であろう。気の毒なことに、世間はそういう教師を応援するどころか、教師までも迫害し始めた。とうてい無理な状況に追い詰めて、解決しろと高みの見物をしている連中は一番罪深い。

いじめにも様々なレベルがあるから、一緒くたにして語るのは危険だ。厳罰に処するという悪童もいるだろう。しかし、それこそ、昔からそういうやつはいたし、これからもいるだろう。問題は、その周辺で時代の影響を受けて連鎖反応をしている人々である。いじめをどうするかも大事だが、長期的には、集団依存症、異質恐怖症、孤立恐怖症を何とかしないとまずいぞ。まあ、話が止まらなくなるのでやめておくが、携帯電話とインターネットが人間の想像力を越えて社会と人の心の中に入り込んでしまったことは、まさに「予想外」の危険因子だろうな。これをどう制御できるか、これを制御できない限り解決はないだろう・・・と勝手に思う。生活習慣病をどうするか何て、当事者は大人なんだから自分で解決しろ。子供の問題は大人の責任だよ。
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【2006/11/24】  この記事のURL | 未分類 | ▲ top
人間は横隔膜だ!
動物は横隔膜だ! 

ある時、深夜番組「草野キッド」を見ていたら、ゲストで寺門ジモンが出ていた。ダチョウクラブのなかでも一番面白くない存在だ。しかし、彼の身体能力の高さは有名ではある。自ら「ヒクソン・グレイシーに勝てる」というくらいだ(誰も信じちゃいないが)。

彼が、「熊にも勝てる」といい、「横隔膜理論」を展開した。ライオン、熊など、猛獣はうなり声で相手を威嚇する。うなり声は横隔膜を振動させて発しているというのだ。そして、熊と対峙した場合はこうだとうなり声を発してみせた。これで熊は寄ってこないというのだ。

おまえは、ムツゴロウかと突っ込みたくなるかもしれないが、彼はその理論を小学生の時に思いつき、山籠もりをして現在に至るまで鍛練してきたそうだ。

その理論は、芸能界最強の一人、草野仁をうならせ、これからは、藤岡宏と同格に一目置くと言わしめた。このエピソードはよほど、世の人々の心を打ったとみえて、「寺門ジモン、横隔膜」でネット検索してみたら、同じような話がいっぱいでできて二重に驚いた。

そんなことはどうでもいいのだが、横隔膜が大事ということについてだ。

ある患者さんが、ボイストレーニングに通うようになったと聞いた。そうしたら、自分のことが分かるようになってきた、今まで気づかなかった自分の内面的なことにいろいろ気づくようになったというのだ。

ジモンの横隔膜の話とボイストレーニングの話と何の関係があるか、そこが重要だ。共通することは「振動」という要素である。熊をも恐れさせたのは横隔膜の振動により発せられるうなり声である。

ボイストレーニングをネットで調べてみると、「横隔膜」ということがキーワードのように書かれている。通常の発声を胸式発声といい、腹から声をだすことを腹式発声というらしい。体育会系だと「腹の底から声を出せ」という言い方をよく耳にする。腹から声をだす、横隔膜を動かして声を出すと、体の中で大きな振動が起こるということだ。

そして、その振動が重要な役目をする。人間の体の6-70%が水分だと言われ、水分は振動をよく伝える。振動は脳に大いなる影響を与える。音楽もそうだが、宗教で木魚や鐘がよく用いられるのは、ある種の振動が人間の脳を安定させることを昔の人は経験的に知っていたからだろう。

例えば、頭の中であることを考える。それは思考としては、確実に意識される。しかし、声に出してその考えを話す、特に大きな声で話すと、その影響は頭の中で考えているだけより、遙かにインパクトが大きい。こころで「ありがとう」というより、声に出して「ありがとう」とはっきり言うと、気持ちがよいものである。頭の考えは、体に何も響かないので、勝手に暴走したり、分からなくなったりする。声に出して体で考えを理解できるようになると、少しは何かが違ってくる。カウンセリングというのは、何か考えをめぐらせることに意味があるような錯覚があるが、自分の考えを声に出すこと自体に意味があるのである。声に出すことだけで、理解が身体レベルまで広がり、考えがより安定するのではないだろうか。声を出すことで、体を感じるようになる習慣がついてくると、常に物事を頭だけではなく、体全体で理解し感じるようになるのだろう。そうなることで、表層的な理解から深い理解にができるようになるのかも知れない。

 

言葉は言霊というように、昔から重要な意味があるとされてきた。ものにそれぞれの言葉=音が与えられているが、それは何も偶然適当に与えられているわけではないだろう。その物に与えられた音に、何か人として重要な振動が秘められているなら、我々はもっと正確に言葉を声に出して生活すると良いのかも知れない。そもそも、我々はなぜそれがその音で表現されるのか分からないのだから。太古の昔から人類が果てしない年月をかけて、その音を発することを選択したのは、少なくとも我々の小賢しい屁理屈よりは、はるかに生物学的な意味があるだろうから。伝承された形や音はもっと大事にすべきなのだろう。

話が相当ずれてしまったが、声を出し、振動を感じることの重要さを感じてもらえたら幸いだ。
【2006/11/19】  この記事のURL | 心療内科関連 | ▲ top
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