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八卦見-古人の知恵

わたしの叔母は、ある時から突然「力」を授かり、その後の多くの人々の力になるという運命を背負って生きた。力の源は誰かから受け継いだ「だるまさん」だった。私も、幼い頃から疑いもなく特殊な力のある「だるまさんの叔母さん」と信じていた。

叔母さんのやっていたことは次のようなことだ。
1.まず困った人が相談にくる。その内容を、十分時間をかけて、決して妨げることなく、言いたいことを全部きく。
2.その後、おもむろに、立ち上がり「だるまさん」に向かってお祈りを唱える。そして、どうしたらよいか「だるまさん」に尋ねる。
3.いろいろな解決法を叔母さんが「だるまさん」に聞く。そうすると、ある一つの方法を尋ねたときだけ「だるまさん」がふっと軽く持ち上がる。それ以外の方法を尋ねても決して上がらない。
4.おばさんは「だるまさんは~が良くないから、~しなさいと言っているよ」と教えてくれる。
5.そして、最後に御加持といって、般若心経を唱えながら、数珠をもった手で背中を中心にマッサージのようにほぐしてくれる。

やることは、以上のようなことだった。その一連の行為を神聖な気持ちで、皆が待ち、受け入れるという儀式だった。「だるまさん」が言うことはだいたい一緒だった。「家の○の方角が汚れている。そこをまず、清めて、その後、般若心経を○回唱えなさい」というものだった。「だるまさん」のいう方角には、なぜかいつも何か問題があったので、ああそういうことかと納得したものだ。そして、その後課せられる般若心経を唱える回数が尋常じゃない。何千回という回数だった気がする。一度に、そんなに唱えられるはずがない。毎日夜何回、一人で出来ないときは家族で分担して何回ずつとかやって、合計その回数になるように頑張っていた。

そうすると、不思議なことにたいていのトラブル、問題は解決していったものだ。そして、さらに「だるまさん」への信仰が深まり、何でもかんでも、困ったら「だるまさん」という風になっていた気がする。そして、ある時、その方法でも解決しない出来事に遭遇し、あるいは従ったのに、よい結果にはならなかったという経験をし、そこから離れていくのである。それに、叔母さんが高齢になり昔のようなパワーがなくなり、訪問者はどんどん減っていった気がする。

今になり、その出来事は何だったのだろうかと考える。私は、完全に近代科学教育に洗脳されて育ってきたので、何でも現代風に解釈したくなる。本当のことは、誰にもわからないけれど、あの方法はずばらしい技術だったと痛感するのである。

つまり、こういうことだ。
1.人の心は弱い。何か問題が起こったとき、何が原因なのかはっきりさせたくなる、というより、曖昧で宙ぶらりんの不安に耐えられない。そういうとき、余計なことをして、問題をこじらせていくのが世の常だ。
2.叔母さんは問題の原因を「○○の方角が汚れている」という誰も傷つかない、誰にせいでもない出来事に帰結する。そうすることで、とりあえず、余計なことを考えずにすむわけだ。
3.そして般若心経を唱えさせる。しかもものすごい数だ。1000回として、一日100回で10日、10000回だと100回で100日・・。一日100回般若心経を唱えると、夜は自然に過ぎていく、余計なことを考えずに時が過ぎる。そうやって何日もすごす。
4.たいていの物事は、余計なことをしなければ、自然に何とかなっていくものだ。不安に負けて、余計なことをするから、こじれていくのだ。それを、こういった、利害関係のない、誰のせいでもない、何かしら良いことをしている気になることをやり続けることで、時間を稼ぐわけだ。

誰のせいでもない原因に帰結し、神聖な気持ちになれる行為で時間を過ごす、そうしている間に、何とかなることは自然になんとかなる。ほとんどの問題は、こうして何とかなっていくものなのだろう。こんな考え方は、罰当たりなことなのかもしれない。何かもっと違う力が作用していたのかもしれない。

ただ、思うことは、今の病院での治療に、これほどの力があるだろうかという疑問だ。理屈ばっかりで、思考をこねくり回し、考えを変える技術などなど、そんな行為にはさらなる疑問や理屈が増殖するだけだ。私たちが無くしてしまった方法は、考えないようにする技術、煩悩を行動で昇華する技術(お百度参り、水かぶり、滝行、五寸釘とわら人形などなど)ではないだろうか。人の心は思うようにいかぬ物、自分が思っているより、心は遙かに複雑だ。心のバランスを取る方法は、実はこういった神秘的な領域にヒントがあるのだろう。闇に光を照らし、何もかも表に引きずり出し、理屈でこねくり回し、科学的に解釈する。そうやって、闇の力をおとしめてきたことが、結果として自分を追い詰めていることにそろそろ気づくべきだろう。そうしないと、そのうち偽物の新興宗教に飲み込まれていってしまうぞ~、気をつけろ!

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【2006/07/29】  この記事のURL | ホリスティックな人々 | ▲ top
「CUBE」を見た

hana1.jpg以前「CUBE2」という映画をみた。言われなく、四角い部屋に閉じこめられて、脱出しようとしても、トラップにひっかかって死んでしまう。登場人物は全員助からないという救われない映画だ。前作「CUBE」というのが、マニアの間では評価が高いことは知っていたが、見る機会がなかった。最近、「CUBE ZERO」という映画のDVDがでて、それは「CUBE」の前作に当たるというふれこみだったので、とりあえず見た。ネタは同じようなもので、やはり救われない映画だった。そこまで見たら、第一作目の「CUBE]を見るしかない。DVDがあることがわかったので、レンタルして見た。内容はほとんど同じで、作成された時代の違い、予算の違いを感じさせる以外、ネタはほとんどいっしょ(というより、それが元になって、CUBE2 CUBE ZEROができた)、救われない映画だった。

その映画「CUBE」の内容はともかくとして、映画の中の台詞にちょっとしびれたので、紹介しよう。

閉じこめられた人同士は、全く面識はない。ともに行動する内にお互いの素性を徐々に知っていく。メンバーの中に、警察官がいて、もう一人、やたらトラップに詳しい男がいて、「なんでおまえはそんなにトラップに詳しいのか」と質問し、ふとその男の名前をみて、警察官は思い出した。そう、有名な脱獄犯だった。いくつもの難攻不落の刑務所を脱獄してきた、脱出の達人だったのだ。それで、一同は喜ぶ。この男に従っていけば、脱出できるかもしれない!と。

その時、男が語る言葉にしびれたというわけだ。前振りが大変長くなりました。その台詞とは

「考えるな(考えすぎるなだと思う)、想像もするな、目の前のことだけを考えろ。脱出は難しい。自制心が必要だ」

という台詞である。なんで、こんな台詞にしびれたかというと、私が今、もっているイメージに近かったからだ。病気になるということは、まさにトラップに引っかかったような心境だと思う。「何で自分だけが、どうしてこんなことに」という思いにさいなまれるだろう。そして「ここから、どうすれば出られるのか、本当にでられるのか、もはや助からないのではないか」そんな気持ちにもなるだろう。まさに迷路にはまったのと同じイメージではないか。

通常、原因探しをしたり、いろいろな方法を考えたり、する前から、いろいろ想像したり、現実と想像の区別がつかないまま、どんどん気持ちは不安定に、そして悪循環になっていくと思う。普通の治療のイメージだと、「どうしてこうなったのかよく考えましょう」「あなたの生い立ちの中に、きっと答えがあるはずです」「これからどうしたらよいか、よく考え、こうなりたい未来をイメージして、ポジティブに考えましょう」などなど、言われたことはないだろうか。

確かに、場合によっては、そのやり方が有効な場合もあるだろう。しかし、難しい病態であればあるほど、そういったやり方は有効でないどころか、問題をこじらせることが多いと思う。難しい病態を、脱出困難なトラップと置き換えてみると、映画の登場人物がいう言葉が胸に響く。「あれこれ考えすぎるな、あれこれ想像するな、目の前の事だけ考えろ(今、目の前にあることを行うことに集中しろ、それだけやり遂げることを考えろ)。回復は簡単ではない、自制心が必要だ(決してあきらめず、自分の感情に飲み込まれたり、振り回されたりせずに、行動しろ、そうすれば、必ず脱出できる!)。」そんな感じだ。

私は、本当にそう思う。普段から始終、一日中、そんな緊張感をもって、行動しろと言うことではない。われわれは、決して、監獄に閉じこめられているわけでもないし、命をねらわれているわけでもない。ただ、時として、心が揺らいだとき、よからぬ考えに流れそうになったとき、この言葉を思い出して、心の揺れを最小限にとどめようではないか。

「考えるな、想像もするな、目の前のことに集中しろ。脱出は難しい、自制心が必要だ」

【2006/07/09】  この記事のURL | 未分類 | ▲ top
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