スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/--】  この記事のURL | スポンサー広告 | ▲ top
大山倍達かく語りき(3)
「頭で覚えるより体で慣れよ。だが、体が慣れたら頭を使え」
身技体を鍛え上げる修行。とりわけ武道の習得は、基本を繰り返し練習し、反射的に動作できるまでそれを身につけることが肝要だ。それを稽古という。基本を習得したならば次には自分なりに創意工夫を加えて一段と技に磨きをかける。さらに実戦に臨んで勝つための研究を心がける。(大山談)

まさに「認知行動療法」です。私たちは頭を使うことがよいこと、問題を解決するには頭を使わなくてはいけないと思いすぎています。前述の稽古には工夫が必要だというのを矛盾しないか?というと、これは別の観点です。人が何かを身につけるためには体で理解することが大切だということです。

これは特に不安を乗り越える場合に当てはまります。泳ぎができない人がいたとしましょう。泳ぎ方を人に聞く、本を読む、ビデオを見る、それはそれで結構なことです。しかし、いくらそれを繰り返したところで泳げるようにはなりません。絶対にさけられないのは、おそるおそる水に入って体を動かしてみることです。「水に顔をつける」「水に潜ってみる」「水に浮かんでみる」「浮かんでバタ足をしてみる」・・など、一つの段階が理屈抜きにできるようになるまで続け、それができるようになったら、次の段階に進む。その過程で、何がよくて何がいけないのか、そこでは人のアドバイスをうけたり、ビデオを見るのもよいでしょう。

不安に関する病気への対処も同じです。不安を先取りし、なるべく不安にならないように、不安の症状を回避するための方法を頭の中でいろいろ考えるのではなく、より低い目標を決めて心と体がなれるまで繰り返す。それが理屈抜きにできるようになるまで繰り返す。それができた後で、あるいはそれをした後で、頭を使って、よりよい工夫を考えるわけです。これは行動療法や認知行動療法の考え方に通じるものです。

不安になると、それ以上不安にならないために先取り・先回りしたくなりますが、不安に慣れていくことが大切なのだということを忘れないでください。
スポンサーサイト
【2005/06/26】  この記事のURL | 大山倍達かく語りき | ▲ top
大山倍達かく語りき(2)
「稽古前・稽古中・稽古後とも同じ頭の使い方をする者には上達なし」

ただ漫然と道場に出て、言われるままに手足を動かし、稽古がすめばさっさと引き上げるような惰性的人間が上達しないのは当然の話だ。稽古前にはその日になすべき重点事項を練ってメンタルりハーサルを行い、稽古中は手直しすべき点を厳密にチェックし、稽古が済んだら反省したり助言を求めたりするような頭の使い分けを心がける意欲的人間は稽古の度にいくらかでも上達する。(大山談)

空手の稽古に限らず、人が生きていく上での行為に当てはまるのではないでしょうか。疾患からの回復、慢性疾患との関わりかたもまた同じだと思います。「稽古」という考え方は大切だと思います。勉強だと思うから、仕事だと思うから、治療だと思うから、よけいな考えが混ざり込んできて、よけいな損得勘定や期待と幻滅が混ざり込んできて、ややこしい話になってしまいます。

すべては、生きる上での「稽古」であり、上手になることを純粋に目指せば、「稽古の度にいくらかでも上達する」ということです。ここでさらに大事なことは、それほど意欲的にやっても、進歩は目に見えないほど少しずつであり、急に上手になるわけではないこと、その「稽古」に終わりはないということです。

私たちは、往々にして、「いつまでやればいいですか」「必ずよい結果になるでしょうね」という感じで、「結果を急ぐ」「結果がよくなることしかしたくない」という煩悩があります。

空手の稽古も人生の稽古も、終わりのない、結果に対して何の保証もない中に、それでもより上手になりたいという気持ちを忘れずに、地道な修練をつみかさねていくプロセスなのです。
【2005/06/26】  この記事のURL | 大山倍達かく語りき | ▲ top
大山倍達かく語りき(1)-武道と心療内科-
心療内科のお話の中で、なんで武道の話を引用するか。私は高校、大学と柔道をやっていました。幼い頃から、自分の心の弱さ(体が大きかっただけによけいみっともない)を痛感し、「強くなりたい」という気持ちが大変強かったです。結局、強くはなりませんでしたが、武道から多くのことを学びました。特に武道における間合いは人間関係そのものだと思っています。柔道をやっているときは、そんな風には思っていませんでしたが、医師になり患者さんと対峙するようになって、やっとそれがわかりました。

間合いとは、まさに人と人との心の距離なのです。不用意に近づけば傷つくか傷つける。しかし、間合いに入らなければ、関わりを持つこともできない。下手なうちは、間合いに入れず、入られることも嫌なので、両手を突っ張って、へっぴり腰になります。そして、気を抜いた瞬間に、相手に間合いに入られて投げられてしまいます。うまくいくかどうかは、間を読めるかどうか、そして、その間で瞬時に行動できるかどうかです。そのためには、基礎体力の向上と単純な反復練習と、実践的練習の積み重ねが必要です。ただ繰り返すのではなく、自分の弱さを知り、常に相違工夫をして、自分の心の迷いを断ちきり、勇気を持って行動することが必要です。その勇気を支えるのは、日々の訓練なのです。

武道と人間関係の違いは、勝ち負けが目的ではないことですが、それ以外の点においては共通することが多く、人間関係を考える上で非常に参考になります(もちろん、武道も究極的には勝ち負けが目的ではなく、人としてどう生きるかを目指すものです)。日常、それほど緊迫して過ごしているわけにはいきませんが、人間関係でも重要な局面では同じようなことが起こっています。私は、人間関係を円滑にするためには、それなりの努力が必要だと思っています。何となくなれ合いで過ごせる関係も多いですが、それだけでは、いざというとき、人間関係がこじれたときに何が起こっているのか、どう切り抜けてよいのかわからないでしょう。

甘えが許され、なれ合いで過ごしていける関係の方が特殊であると思います。間を読み、間合いに入り、よりよい関係を醸し出すためには何が必要でしょうか。間合いを読む=自分と相手との間で何が起こっているのかを理解する、間合いに入る=その状況に対して自分がどう関わるか覚悟を決めて行動する、ということでしょう。そしてもっと大事なことは、結果を冷静に受け止めて、結果から学ぶと言うことです。

「一芸は万芸に通ず」、一芸を極めた物の言葉は、他のことにも通ずる、耳を傾ける価値は十分あると思います。能書きが長くなりましたが、武道は人間関係に通ずると信じている私は、大山先生の言葉から学ぶことは多いので、それを紹介したいと思います。
【2005/06/26】  この記事のURL | 大山倍達かく語りき | ▲ top
ホリスティックな人々(4)-立場は一つ-
チベットの高僧 ダライ・ラマ十四世は時々来日されます。

私は会ったことはありませんが、ホリスティックな人々は、会う機会に恵まれたようです。

そのときに、ある先生が「法王は、そのような禁欲的な人生の中で、他に何かしたいとか、女性との問題とか考えたことはないか」と大胆な質問をされたようです。そうしたら、返ってきた言葉は「これまでに、そういうことを考えたことがないわけではない。しかし、人は一つの立場しか選べない。今は自分の立場に満足している。」(記憶が曖昧なので私の妄想が入っているかもしれませんが)というような話でした。迷いのなさが安定を生む、安定が力を生む、そういうことなのだと思います。

なんてことはない話です。しかし「人は一つの立場しか選べない」そのフレーズに私は感動しました。その当たり前のことが受け入れられず、あくせくしている人がいかに多いことか。一人の異性がいるのに、他の異性にふらふらと、家族があるのに他の欲望にふらふらと・・・。「二兎を追う者は一兎をも得ず」昔からそう言われ続けているのに、もっとよい道があるはずだ、もっとよい方法があるはずだ・・と揺れまくります。そして力が分散し、それを力がないことと勘違いしていることが多いです。火事場の馬鹿力という言葉があるように、人はすべての迷いを断ち、今ここにすべてを集中するとものすごい力を発揮するものです。力がないのではなく分散しているのだということを理解しましょう。

一つの立場を選択すること自体が難しいと言えば難しいのですが、それでもやはり目標は一つの立場を選ぶこと、それが人生においても、治療においても、そのほかの何においてもとても大切なことなのだと思います。
【2005/06/19】  この記事のURL | ホリスティックな人々 | ▲ top
ホリスティックな人々(3)-信じるな、疑うな-
信じるな、疑うな」なんと不思議なフレーズでしょう。

これはホリスティックの仲間だった、ある有名なヨガの先生に聞いた言葉です。その先生が、そのまた先生から言われた言葉であると教えてくれました。

その先生が、ヨガの第一人者であった有名な先生に入門したときに言われたと聞きました。普通は、「私の言うことを信じなさい」とか、いいそうですし、そういう人が多いですね。その人自身が言わなくても、取り巻きがそういったり、疑わずに言われたとおりにしなければいけない雰囲気が漂っていたりするものです。

「信じるな、疑うな」・・いったいどうしろと言うのでしょうか。そんなことを言われてどうしたらよいのでしょうか。

そういわれたらどうなるかを想像してみればわかります。本当はその状況を体験しないとわからないはずですが、あえてシミュレーションしてみましょう。

先生に何か指示、指導を受けたり、講話を聞いたりしたとします。「信じるな」・・それはそれでいいのかね・・「疑うな」・・・うーん、どうしよう、とりあえずやってみるしかないか。という日々が続くことでしょうね。「信じてやりなさい」と言ってくれよと思っても「信じるな」、こんなことやっていて意味あるのかと思ったら「疑うな」、もーどっちなんだよ、どうすればいいのよ・・と思いつつ、とにかくやってみよう、よーわからんが・・となるでしょう。

そんな日々が続いた時、その人には何が起こるでしょうか、何の先入観も持たず、ただ続けた結果、体験的に得たものを体の中に感じることでしょう。それは教わったものでもなく、自分で考えたものでもなく、自分の継続的な行動の結果、生まれたものといえるでしょう。

そこれはたと感じるでしょう。そういうことか、「信じるな、疑うな」・・「先入観を持たず、頭でっかちにならず、とにかく体で体験せよ、さすれば、自ずとわかるときがくる。その体験的理解こそヨガなのだよ」私はそのように夢想するわけです。

それは、他の治療にもいえることです。人は何かを信じたいです。そして安心したい。これをやっていれば大丈夫だよと保証してほしい。しかし、そういう気持ちでやると、必ず起こってくるのは、「なーんだ、ちっともよくならないじゃないか」信じたが故に不信が生まれるわけです。逆に疑いからは純粋な経験はできません。

人が純粋に体験することがいかに困難であるかを知っているからこそ、その高名なヨガの導師は一見、ダブルバインド(二重拘束)のような矛盾したメッセージを送ったのでしょう。「どちらかに傾きすぎるな、バランスをとりながらまっすぐ進め、その果てにはきっと何かがある」

同じようなメッセージとしてはこれですね。アントニオ猪木によって有名になった一休禅師の言葉

この道を往けばどうなるものか

危ぶむなかれ  危ぶめば道はなし

踏み出せば  その一足が道となる 

迷わず行けよ 行けば分かる
【2005/06/19】  この記事のURL | ホリスティックな人々 | ▲ top
ホリスティックな人々(2)-鐘が鳴るやら-
ホリスティック医学協会の月例会というものがあり、毎月講演会やワークショップ、あるいはミーティングを開いていました。その会が終わった後、一杯飲みに行くのが習慣でした。そこで、盛り上がりながら、皆の体験談を聞くのが楽しみでした。

これは、ミスターホリスティックというようなドクターHから聞きました。そのDrのオリジナルというわけではなく、その人が聞いた話を教えてくれたわけです。私はもちろん初めて聞くフレーズだったので、大変感動したわけです。

鐘が鳴るやら、鐘木が鳴るやら、鐘と鐘木の合いが鳴る

というフレーズです。一見何気ない言葉ですし、そりゃあそうだわねという内容ですが、人間関係の本質を見るような思いでした。鐘を鐘木(鐘をつく棒)で打つ、ゴーンとなる。それは鐘が鳴ったのか、鐘木が鳴ったのか・・・物理的に考えれば鐘が鳴っているわけですが、鐘木がなければ鳴りません。鐘木だけでは絶対になりません、しかし鐘木がなければ鳴りません。そう、まさに鐘と鐘木の一瞬の出会いが音を出したわけです。どちらか一方では決して発することなない新しい創造物です。そして、それは二度と同じ音はでません。出会うタイミング、強さ、周りの環境、何一つ同じものはないので、その一瞬の出会いは二度と起こることない出会いなのです。そして、またそのフレーズには、その出会いを観察している視点がもう一つあると教えてもらいました。鐘と鐘木と、その出会いを見る・聞く人と。それらが一体となり一瞬の出来事を共有している瞬間です。人間関係もまた同じ、何がどう同じなのか・・そう感じたのだからまあいいでしょう。こういうイメージは理屈ではなく、心に響くもので、心でしみじみ理解する性質のものでしょう。

私は、それを聞いて、ふるえるような、しみいるような感動を感じました。一期一会という言葉も好きですが、出会いというものの不思議さ、大切さをゴーンと感じました。
【2005/06/19】  この記事のURL | ホリスティックな人々 | ▲ top
ホリスティックな人々(1)
かつて、ホリスティック医学協会という会に長いこと関わっていました。自分が医者として壁にぶつかり、あるいは現代医学の問題、矛盾に真剣に悩み、何か壁を乗り越えたいと思っていた時期でした。

その会を通じて、様々な立場の方、様々な仕事の方々を出会うことができ、どれほど救われたかわかりません。当時の私は、現代医学、徹底した科学主義、その権化としての大学病院という組織の中で、萎縮し、方向を見いだせず迷いの渦中にありました。そういう時期に出会い、私を励まし支えてくださった方々への感謝の気持ちは絶対に忘れてはいけないものだと思います。人間、苦境に立たされたときに本当に大切な出会いがあるのだと思います。

その時期に、出会った方々からいただいたいくつかの貴重な言葉や体験があります。その一部を紹介していきたいと思います。その方々への感謝を込めて。
【2005/06/19】  この記事のURL | ホリスティックな人々 | ▲ top
心を動かされる言葉
このブログでは、日常遭遇した出来事から連想される心身医学的お話を書くつもりです。それと同時に、これだけはかいておきたいと思うことがあります。
それは自分が感銘を受けた言葉の数々です。よく座右の銘とか、哲学的言葉、古人が言った有名な言葉(論語みたいな)、があるでしょ。私が感動する言葉の多くは、漫画から得たものなのです。
私は60年(昭和じゃないよ、1960)生まれで、巨人の星、あしたのジョー、タイガーマスクなど梶原一騎世代であり、そういう話になるといつまでも語り続けることができるほど影響されているわけ。それと、わすれてならない大山倍達先生(空手バカ一代の主人公だ)の言葉。アントニオ猪木も好きだな。
今は、みなスマートになってしまって、泥まみれになって、はいつくばってでも、泥をすすってでも・・という根性論は崩壊してしまいました。大変残念なことです。誰がなんと言っても、私にとって一番影響を与えたその文化を大事にしたいし、紹介したい。そういう思いが強いです。
そこでシリーズ「梶原一騎かく語りき」「大山倍達かく語りき」を時々かいていきたいと思っています。よろしく。
【2005/06/11】  この記事のURL | 未分類 | ▲ top
万博に行ってきた
夕方、万博に行ってきた。70分待ちで「長久手日本館」に入れた。そこで噂の半球型大画面映像を見てきたわけだ。
空の映像、海の映像、宇宙の映像がぐるぐると縦横無尽に展開される。自分は全く動かずに、それを眺めているだけ。それなのに、体が傾くというか、目が回りそうな、もうちょっと長く続いたら酔ったか倒れたなって感じ。
それで、思ったわけだ「人間の脳みそなんてチョロいもんだ」って。テーマパークでバーチャルジェットコースターがあるよね。あれはいすも動くので錯覚に陥りやすい。今回は映像だけだったけど、かなりのインパクトあり。
そこで、思った。バーチャルリアリティを心理的な治療に使えないのかって。軍隊や宇宙飛行士は、使っている訳だから、コストの面が問題なければ使えるだろう。
我々の脳みそは自分が思っているより遙かに、単純にできているようだ。マイナスの思いこみで、脳の機能に制限を加えているのだろうな、きっと。あるいは、心理的な傷つき体験とかあると、にどとそういう目に遭いたくない、これ以上傷つきたくないという気持ちから、自ら経験や思考を狭めてしまう。それは一種の防御反応で、一時的には有効な方法だ。しかし、そこからの回復を考えると、それが逆効果になる。同じ情報しか入力されなければ同じ結果にしか到達できないから。堂々巡りの状態に陥ってしまう。
治療とか回復のプロセスというのは、変化のおそれを保護し、新しい経験を支援する作業の積み重ねだ。もし、バーチャルリアリティ効果が利用できれば行動療法、認知行動療法は飛躍的に進歩するかもしれないな。
【2005/06/05】  この記事のURL | 未分類 | ▲ top
| メイン |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。