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パキシル報道に思う

いやー驚いた。「パキシルで自殺が増える」と大々的に新聞に載っている。ネットでも報道されている。医療者はこんな恐ろしい薬を出していたのか、いったいどういうつもりなんだと怒りを感じたり、「私ものんでいるけど、どうなってしまうの。なんて恐ろしい薬を飲まされていたの」と恐れおののく人がでてくるだろう。当然の結果である。そもそも、パキシルを内服している方は、鬱症状か不安症状か強迫症状があるわけだから、ただでさえ不安が強いとか判断力が低下している方に、この報道はないだろう。本当に問題なら、処方している医師に通達して、「厳重注意」を呼びかければいいではないか。

実は、医師の間には、とうの昔からパキシルを始め抗うつ剤は注意して使用するように喚起されている。だから今更、大々的に報道された意味がわからない。処方してる医師は、どんな薬も全く安全な薬があるわけではないので、薬を出す以上、その後に起こってくる問題には敏感になっているものだ。特に抗うつ剤の場合は、SSRIの場合、内服初期段階でイライラや不安が高まることがあるし、一般的な抗うつ剤を内服し始めて、鬱症状が軽減しかけたときに自殺の危険が高まる人があることは百も承知しているわけだ。もともと、精神が不安定な方に処方しているのだから、それほどのんきに構えている阿呆な医者はおるまい。

それなのに、医療者の頭を飛び越えて、「パキシルで自殺」という、全く限られた情報だけを垂れ流すとは常識を疑う。いったい何をどうしたかったのか。今現に内服している人、内服して改善している人、もっと心配なのは、内服に不安を感じていた人などへの影響は計り知れない。さらに問題なのは、この記事を読んで、いきなり内服を中止した人がどうなるか。長い間、ある程度の量を内服していた人であれば離脱症状が起こる可能性が高い。それはどうなるかといえば、内服中止後48-72時間くらいで、何かしら違和感を感じ始める。時には強い不安におそわれる場合もある。そうなれば、ますます大変な薬を飲まされてえらいことになったとパニックになる可能性だってある。

ここで注意してもらいたいのは、それに先立つこと数ヶ月前、インフルエンザ治療薬「タミフル」でも問題が起こったことだ。あのときは、ある年齢層に限って言えば、明らかに異常な事態が起こっていた。それなのに、厚生労働省は長いこと因果関係はないと言い続けていた。専門家たちもインフルエンザだけでも起こることで、タミフルと結びつけるのは間違いだと、口をそろえて言っていた。

パキシルを始め抗うつ剤なんか、もっと因果関係はあいまいだ。それに、もともと自殺という悲劇を防ぐために治療を開始するわけだし。今回の自殺行動というのも怪しい言い方だ。どの程度の行為をさして言っているのだろう。今若い人たちの間ではリストカット、オーバードーズは決してまれではない現象になっている。そういう衝動を防ぐためにSSRIを処方することだってあるのだ。そうなると、もともとの疾患と薬との因果関係はどうやって証明するのだろうか。問題があるケースが増えているというが、処方されるケースが増えているので、パーセンテージで表現してほしいものだ。

医療の中には、「疑わしきは黒」という考え方が普通だ。だから、今回、パキシルを始め抗うつ剤に警告がなされたことは当然である。わしは、警告されたことをとやかくいっているのではない。それに関しては異論はない。問題は、報道の仕方、その無責任丸出しの姿勢を批判したいのだ。それと、「疑わしきは黒」の伝統があったのに、なぜタミフルだけはいつまでも「因果関係はない」と言い張っていたのか。

タミフルは新型インフルエンザ対策で政府主導で備蓄していた。それに、他の治療法は今のところない。だから「タミフルは危険」という話にどうしてもしたくないという政治的思惑があったのではないか。それに引き替え、パキシルを始め向精神薬のたぐいは、「どうしても飲まなくてもいい」「むしろ医者が過剰診断・過剰投与している」という偏見があったのではないか。これこそ、言葉にはならない、無意識の偏見であろう。パキシルがパニック障害の治療をいかに改善したかを少しでもわかっていたら、そんな安易な発言はできないはずだ。

新聞報道には、ご丁寧に専門家の意見として、カウンセリングで治るケースもあるから安易な処方はさけるべきだという感じのコメントが載っていた。ふざけるな!それで何とかなるなら、言われるまでもなくそうしているさ。病気をいったい何だと思っているのか。それより、タミフルこそ、普通の免疫力のある人だったら飲む必要はない薬だろうが!

これはもはや科学的議論ではない。何かしら、得体の知れない人たちの思惑が、底の部分でうごめいているようにしか思えない。これらの報道でいったいだれが得をするのか、それを考えていけば犯人は推察できるかもな。ちょっと邪推しすぎか?わしの妄想か?

この問題は是非「たかじんの そこまでいって委員会」で取り上げてほしいものだ。

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【2007/07/01】  この記事のURL | 雑感 | ▲ top
歴史の重み
今、我々はとりあえず安全に生活している。治安大国といわれていた頃に比べれば、殺人を含め、毎日のように犯罪報道がされており、そうのんきにも構えていられないのも事実だ。ただ、テレビのスイッチをつけなければ、新聞をみなければ、それほど普通の日常が危機的であるとは思えない。

格差社会といわれるように、社会の底辺では確かに異常事態が、刻一刻と広がり、社会を根底から崩壊させかねない流れにあるような気がするし、環境問題のように人類の未来とかいうのも危うくなっているのも事実だろう。
それでも、今、この瞬間に危機感はあるか?多くの人はないだろう。とりあえず、家の中、あるいは日の当たる普通の場所に、人通りが多い時間にいれば危険とはいえないだろう。予測不可能なアクシデントは例外であり、人がいる限りある確率で必ず起こる。

何が言いたいかというと、ほんの60年くらい前までは、そうじゃなかったし、それは遠い過去のことじゃない。今こうしていられるのは、やはり、当たり前のことではなくて、ありがたいことなのだということなのだ。

わしの父親は昭和元年(1926)生まれで、わしは昭和35年(1960)生まれだ。わしが中学2年生、14歳のころ、つまり昭和49年(1974)には父親は47歳だったわけだ。そのころ、わしは父親から、よく戦時中の話を聞かされていた。豊川海軍工廠で働いていたとき、敵機グラマンが機銃掃射をしながら飛んできて、逃げようとして友人が目の前で撃ち殺されたなどという話を当たり前のように聞かされていた。聞いている自分としては、遠い昔話のように聞いていたわけだ。

今年平成19年(2007)、わしは47歳になる。息子は14歳だ。わしが父親から戦争の話を聞かされていた状況とほぼ同じになる。父親は20歳で終戦を迎えているが、そういった悲劇は17-8歳の頃の話だ。

年齢を自分に重ね合わせてみる。自分が17-8歳、つまり高校生の頃の話を、今、息子に話して聞かせるということだ。なんだ、そんなことならいつもしているじゃないか。柔道部の時に、練習がどんなにつらかったか、どういういきさつで右腕を脱臼したか、友達が脳しんとうを起こしたとか、鎖骨を折ったとか・・・まるで昨日のことのように、イメージも鮮明に思い出されて話をする。

そうか、それくらい鮮明なイメージで父親は自分に戦争体験を語っていたのか。そう思うと愕然とする。今の時代が、治安が悪いとか、政府のやり方がめちゃくちゃだとか、モラルが崩壊したとかいっても、わしの友達はグラマンに機銃掃射されて死ぬことはない。自分の命がいつ絶えるのかと思いながら生きているわけでもない。わしが息子に聞かせるのは、せいぜい脱臼か骨折だ。

確かに、そんなことは時代の問題であって、比べることではないだろう。どっちがどうという訳ではない。しかし、現実につい60年くらい前、親の世代は、そのような状況であったことを、自覚なく過ごしていてよいのだろうかということだ。今の日本の繁栄は、ことの善悪はともかく、確かにその前の時代の礎の上に成り立っている。それは動かしがたい事実だ。

「あの戦争は何だったのか」そうやって、向こう側の話にしてしまって、学者のように冷静に思考するのはかまわない。好きなだけすればいい。大事なことは、理屈ではなく感性として、その時代の上に自分たちがいるという感覚・・それは、そう簡単になくしてしまってはいけないことのように思うのだ。

「戦空の魂」という漫画がある。戦時中の若者がいかに生きたのかという話だ。わしは別に戦争の善悪をどうこう言う気はない(どちらかといえば、歴史など、後から理屈をつけるのは下品だと思ってい立場であるが)。ただ、そういう時代があった、確実に。しかも、ほんのちょっと前に。その事実をわしはうやむやにしたくない。それを実感しながら生きていきたい。
【2007/06/11】  この記事のURL | 雑感 | ▲ top
男はつらいよ
しばらく前から昭和ブーム(?)が続いている。編集や制作に携わる人間がわしらと同じくらいの世代の人間になったということだろうか。
わしも昭和文化が懐かしくてたまらない一人だ。もともと派手なことが嫌いな人間なので、昭和の裸電球くらいの明るさに、胸が苦しくなるくらいいとおしさを感じていた。
随分昔に、長島温泉(今は名前も形もかわってしまったな)のプールのエリアで昭和展をやっていて、そこには師勝町歴史民俗資料館から借りてきた物、街並みが展示されていて感動した。
その後、師勝町歴史民俗資料館に何度かいった。本屋にも昭和文化を扱ったものが以前からちらほらあったが、だんだん増えて、今は頭打ちになった気がする。その書物もほとんど手に入れて、コレクションにしている。
後はDVDだな。昭和と戦争、昭和のニュースなどがDVDになっている。それもいくつかはコレクションして、時々見ている。
映画では三丁目の夕日に代表される昭和をネタにしたものがいくつかでた。一昔前に、クレヨンしんちゃんの映画で「モーレツおとな帝国」ってのがあったが、あれは感動した。映像と、その当時はやった音楽を一緒に流されると、たまらない気持ちになる。
これが年をとるということなのか・・死期がせまっているのかと不安になることもある。それくらい、わしは今、昭和文化に飢えている。
音楽も以前は60-70年代のフォークが一番好きだったが、昭和歌謡曲が心に響くようになってしまった。
そもそもそれは同時代のものではないのにね。自分が子供の時、「懐メロ」という番組がしばしばやっていて、親が懐かしそうに見ていた。音楽自体はそういう理由で知っているわけだが、流行していた時のことは知らない。それでも幼少期の記憶ってことなのだろうな。
「カーテンコール」って映画で「いつでも夢を」がメインで使われていたが、それが耳について離れなくなってしまった。
懐かしついでに、タイガーマスク、あしたのジョー、アタックNo1、空手バカ一代など大好きだった曲を、TSUTAYAで借りてきてウオークマンで聞いている。全く極端なことだ。
映画に話を戻すが、今作られる昭和を題材とした映画が、どうもピンとこない。昔の映像自体をみると、心がうずくのだが、似せて作った映像はどうもよくない。雰囲気や物、服装、建造物を再現しようとしている努力は分かるが、何が違うか・・・何かが違う。それは、暗さと汚さと人の顔つきだ。
暗さは人工的に作り出そうとしているが、作られた物と、そうでしかなかったものの差は大きい。汚さ・・これが再現できない。
ある意味、ここ何十年かの歴史は、「デジタル化」という言葉で表現してよいのではないか。デジタル化とは、ありのままの情報から、「自分に必要な物だけを抽出し、コンパクトできれいに見えるようにする」ことだとわしは思う。
見かけ上はきれいになったが何か物足りない。CDのようにデジタル化された音楽より、ドーナツ盤レコードの味わい、それより生の演奏、さらに手作りの楽器による音・・などなど。デジタル化によりきれいで単一化され、再現性には優れるが、ものたりなくなり、アナログ的なものは一期一会というか二度と再現されることがない。
話がそれたが、本物の昭和はアナログの昭和で、今作られた昭和はデジタルの昭和っていうのが分かりやすいかな、余計わかりにくいか。
それがだね、最近、ふらふらっと吸い寄せられるように「男はつらいよ」を借りてきて見たのだよ。感動した。そこにはアナログの昭和があったよ。これこれってかんじ。この色、この形、この顔、この声、このセリフ、この言い回し、このギャグ・・まさにこれだ!と感動した。
第一作が作られたのが1969年と言うから、まさに同時代だ。1969年、人類が月面に降り立ち、万博が近づき、アニメでは、タイガーマスクとアタックNo1が始まった年。そうか、泣けてくるはずだ、全くもー。
いやー年をとったんだな、懐かしくて懐かしくて泣けてくる。
他にHPを立ち上げて、昭和文化保存の会をいつか作りたい気分。
心療内科には何も関係ない話だったね。
【2007/04/30】  この記事のURL | 雑感 | ▲ top
環境問題
日曜日の午後1:30ー3:00に、やしきたかじんが司会をする「そこまでいって委員会」という番組がある。わしが一番楽しみにしている番組だ。
スポンサーが少なくて、大人の事情による制限がないから、言いたい放題言えるらしい。

毎週、興味深いテーマについて、言いたい放題なのだが、今週は環境問題を取り上げていた。名古屋大学教授がでていた。「環境問題はだまされやすい」という内容の本を出した人らしい。

*ダイオキシンはそれほど人間に害はない。
それより、ダイオキシン発生をおそれて、個別の焼却を禁じて、ごみ収集をする、しかも分別する。それには何の意味もない。それどころか、そっちの方が環境に悪い。
*ペットボトルは回収しても6%しかリサイクルされていない。本当のリサイクルは使い回しすることだ。

*地球が温暖化して、北極の氷が溶けて海面が上昇するというのはウソだ。温暖化すると、南極の氷はむしろ増える。温暖化→南極北極の氷→海面上昇→ツバルを初め水没する国がでてくる。などという論理には何の科学性もない。
*今は第二氷河期と言われていて、地球の歴史からすれば、寒い時期であり、それ故赤道に近い所に一番人口が密集しているのだと。

などなど、興味深い話だった。
環境問題は無条件に大事で、環境保護的言動に逆らえば、先生曰く「売国奴」と非科学的に批判されるような、聖域になってしまっていることが問題だ。この先生は純粋に科学者で、環境問題をどうするかと言っているのではなく、その論理はおかしいだろうと言っているだけだ。だから、それをもって「じゃあ環境問題は考えなくてもいいのか」とヒステリックに反応してしまう輩は、狂信的でやばいということなのだ。
それが正しい、その方向は正しいとなったら、科学性より思想的に陥る性質が人間にはあるので注意が必要だ。

で、わしはそんなことが言いたいわけではなく、環境問題についてちょっと考えてみたことを書きたい。

今、地球環境は破壊されつつあり、あとどれだけかで地球はダメになる。人類が地球を壊してしまう、だから環境を保護しなくてはいけない・・などという論理に???と思うのだ。
人類が地球を破壊するからいけないだって?そんなばかな、何十億年も生き続けてきて、これまでに幾多の生物が生まれては消え、消えてはまた生まれを繰り返してきた地球、人類の誕生なんか、その歴史の前にはごみくずくらいだろう。そんな人類が地球を滅ぼすだって?ホントにそう思う???。
そんなわきゃねーだろ。地球だってバカじゃない。何十億年も続いてきたんだぜ。都合が悪くなったら、自分の上に乗っかっている物を排除してバランスを保とうとするにきまってるじゃないか。

このままでは地球を壊すのではなくて、このままでは地球の機嫌をそこねて人類が排除されるからやべーんじゃねーの。地球様のご機嫌をそこねないために、やり方変えないとそろそろやばいよってことだろ。地球なんてびくともするわけないだろ。
地球がだめになるのは、親である太陽様の寿命が尽きてきたとか、太陽様のご機嫌が斜めになったときだろう。
地球の出来事は、きっと人類の思いなどお呼びもしない、深い深い事情によって変化しているのだろうね。それによって、暑くなったり寒くなったり、海面が上がったり下がったり、気候がどうこうなったりしているんだろう。

だから環境問題を考えなくてもいいかって?そうじゃないよ、わしが言いたいのは、逆の発想が必要だということだ。地球様のご機嫌に合わせて生きる工夫をしないとやばいぞということ。地球様が気候を変えたり、温度を上げたり、海面をあげたり、地震を多発させたりするようなら、その上に間借りさせてもらっている下僕の人類は、その事情に合わせた生き方に変化させていかないといけないってことだ。
そして、それは広い意味では今の環境問題対策とつながるだろうが、ペットボトルの回収で何とかなる話ではないということだ。

心の問題でもそうだが、自分がやっていることが原因で問題がおこるような錯覚に陥る。しかし、実際は、自分の体の事情と自分の行動に不協和音が生じて問題が起こるのであり、体を大事にして、体に合わせた生活をしないといけないよというものすごくシンプルな真理を我々は忘れているんじゃないかな。
問題がおこると、体を大事にするのではなく、過去をさかのぼり、親子関係がどうとか、トラウマがどうとか、本当の自分探しとか、・・何か今の環境問題への反応の仕方ににてないか?
まあ、基本に立ち返ろうということだ。小難しい原因探しより、今の生活をもっと規則正しくとか、食事、睡眠、休息とかベーシックな課題に取り組む方が先でしょってこと。

でも名大の先生の話はためになったよ。本買ってよみたいな。
【2007/03/26】  この記事のURL | 雑感 | ▲ top
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