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大山倍達かく語りき(6)
自分には見えない自分の顔を人に見られている、それが人生だ
自分が知っている自分の顔は、鏡や写真に映った顔で、自然にさらけ出されている顔ではない。他人に見られている顔は、自然にさらけ出されたいつわりのない顔である。まさしくそれが人生なのである。大山談

当たり前のことですが、ともすると忘れているとても重要な視点ですね。そうです、私たちは自分の顔も背中も見ることはできないのです。鏡でみたものは真の姿ではないです。自分では見えない顔と背中を人にさらけ出して生きている。好むと好まざるとに関わらず・・。そういう飾ることのできない部分に、その人の本質がにじみ出るものです。たとえ化粧をして、整形をして、一見きれいだと言われる形にしたとて、本質は変わらないと思います。

背中といえば、あの歌です。「僕の背中は自分が 思うより正直かい?誰かに聞かなきゃ 不安になってしまうよ」ってね。自分に見えない部分に自分の本質が現れる。まじめに生きた人間にはまじめな顔が背中が、正直に生きた人間には正直な顔が背中が。子供は親の背中をみて育つと言いますしね。

それを自覚すると身が引き締まる思いですね。人生にはいろいろあるから、良いときも悪いときもあるだろうし、正直なときも嘘をつくときもあるし、いろいろな顔をさらして生きているんだね、私たちは。

人生の最後は「いい死に顔ですね」そういわれたいものです。そりゃ、飛躍しすぎか。

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【2005/07/30】  この記事のURL | 大山倍達かく語りき | ▲ top
大山倍達かく語りき(5)
昔の他カ本願は神頼みだったが今の他カ本願は科学技術信仰だ

現代はテクノロジー万能の時代で、すべてがテクノロジーで解決するかのように錯覚しかねない。しまいには空手の強さもの追求もテクノロジーで、という時代になりかねない。「神仏は尊し、され神仏を頼まず」というのは宮本武蔵の言葉であるが、神仏をテクノロジーとかえてこそ、本当の武道修行であろう。強くなる道に早道はないし、楽な道もない。大山談

近年の科学万能主義には目に余るものがあります。新興宗教で病気が治ると信じている人々のことは笑うくせに、かたや、最新医学は生命の神秘を解き明かし、すべてを解決してくれると平気で信じています。民間人はそこまでバカではありませんが、専門家ともなると正気とは思えないほど、突飛なことを信じていたりします。一部が解明できると、そこからすべてに発展させ、全体像が見えてくるような錯覚に陥りますが、目の前で当たらし発見、新しいデータを日々目にしていると、それが妄想なのか現実なのか区別がつかなくなります。

自分の感性を放棄し、知識や技術に頼れば、そういう間違いにあっという間に陥ります。技術はあくまでも道具であり、それを使う側の感性が大切なのです。「バカとはさみは使いよう」とか「きちがいに刃物」とか今では差別語として使いにくい戒めの表現が昔はありました。便利さにおぼれるな、道具に支配されるな、道具を生かすも殺すも自分の感性しだいであるということでしょう。

あるものを盲信してしまえば、それは楽かもしれないが自分の成長はなくなる。成長するのに近道なし、これでよいという道を保証されてそれを歩んでいくところに成長なし。自分の成長は、未知なる領域に、不安と希望を持ちながら、勇気を持って日々精進すること、そこには近道はない。正しい答えが用意されているわけではない、自分が精進した結果が答えなのだ、そういうことではないでしょうか。

【2005/07/29】  この記事のURL | 大山倍達かく語りき | ▲ top
大山倍達かく語りき(4)
他人の成功からは「人を学べ」、他人の失敗からは「事」を学べ
他人が成功した事柄を真似したところで何の意味もない。そうではなく、その事柄を成し遂げた人物の着眼や発想、実行カ、努カなどを学ぷべきだ。他人が失敗した場合には、その事柄がなぜうまくいかなかったのか学ぶベきだ。大山談

これを見たとき、大変心を打たれました。そう、その通りだ、でも世間では全くその逆だと思いました。この言葉が大山先生の言葉なのか、大山先生が何かで知ってそれを自分の言葉にしているのか、いろいろ調べましたが未だにわかりません。まあ出所はどうでもいいですね。

今の世情に照らしてみましょう。他人が成功したら「なになに、どうやってやったの?何を使ったの?、どの方法がよかったの?何が効いたの?」と方法を詮索します。そして他人が失敗すると「あいつは何をやってもだめだな」とか「あの人~だったそうよ」といううわさ話に花が咲きます。そのような言動がいかに下品なことか・・・

他にもこういうことがよくありましたね。ブルガリアの人は長生きだ→ヨーグルトがいい。沖縄の人は長生きだ→沖縄の食べ物は何だ。○○ダイエットで大成功・・などなど。方法を並べ立て、それで商売するのもまた下品。成功した人も、すぐに本を書きたがる人が多い「私はこうして成功した」ってね。本当に大切なことは、なかなか自分でもわからないものだ。成功した人の生き様をみて、人がそこから何を学ぶかだ、大切なことは。だから、人によって何を学ぶかもいろいろだろう。

他人の失敗からは、出来事を学び、自分の身に置き換えてみる、そして自らを戒めることが大切だ。失敗しただけで、人は傷つき、落ち込んでいるのに、さらに人格まで辱めるのはどう考えても下品だ。

このように、世間には非常によくない風潮があります。それに流されず、大山先生の言葉を胸にとどめ、よりよい学びの姿勢をもちましょうね。
【2005/07/09】  この記事のURL | 大山倍達かく語りき | ▲ top
大山倍達かく語りき(3)
「頭で覚えるより体で慣れよ。だが、体が慣れたら頭を使え」
身技体を鍛え上げる修行。とりわけ武道の習得は、基本を繰り返し練習し、反射的に動作できるまでそれを身につけることが肝要だ。それを稽古という。基本を習得したならば次には自分なりに創意工夫を加えて一段と技に磨きをかける。さらに実戦に臨んで勝つための研究を心がける。(大山談)

まさに「認知行動療法」です。私たちは頭を使うことがよいこと、問題を解決するには頭を使わなくてはいけないと思いすぎています。前述の稽古には工夫が必要だというのを矛盾しないか?というと、これは別の観点です。人が何かを身につけるためには体で理解することが大切だということです。

これは特に不安を乗り越える場合に当てはまります。泳ぎができない人がいたとしましょう。泳ぎ方を人に聞く、本を読む、ビデオを見る、それはそれで結構なことです。しかし、いくらそれを繰り返したところで泳げるようにはなりません。絶対にさけられないのは、おそるおそる水に入って体を動かしてみることです。「水に顔をつける」「水に潜ってみる」「水に浮かんでみる」「浮かんでバタ足をしてみる」・・など、一つの段階が理屈抜きにできるようになるまで続け、それができるようになったら、次の段階に進む。その過程で、何がよくて何がいけないのか、そこでは人のアドバイスをうけたり、ビデオを見るのもよいでしょう。

不安に関する病気への対処も同じです。不安を先取りし、なるべく不安にならないように、不安の症状を回避するための方法を頭の中でいろいろ考えるのではなく、より低い目標を決めて心と体がなれるまで繰り返す。それが理屈抜きにできるようになるまで繰り返す。それができた後で、あるいはそれをした後で、頭を使って、よりよい工夫を考えるわけです。これは行動療法や認知行動療法の考え方に通じるものです。

不安になると、それ以上不安にならないために先取り・先回りしたくなりますが、不安に慣れていくことが大切なのだということを忘れないでください。
【2005/06/26】  この記事のURL | 大山倍達かく語りき | ▲ top
大山倍達かく語りき(2)
「稽古前・稽古中・稽古後とも同じ頭の使い方をする者には上達なし」

ただ漫然と道場に出て、言われるままに手足を動かし、稽古がすめばさっさと引き上げるような惰性的人間が上達しないのは当然の話だ。稽古前にはその日になすべき重点事項を練ってメンタルりハーサルを行い、稽古中は手直しすべき点を厳密にチェックし、稽古が済んだら反省したり助言を求めたりするような頭の使い分けを心がける意欲的人間は稽古の度にいくらかでも上達する。(大山談)

空手の稽古に限らず、人が生きていく上での行為に当てはまるのではないでしょうか。疾患からの回復、慢性疾患との関わりかたもまた同じだと思います。「稽古」という考え方は大切だと思います。勉強だと思うから、仕事だと思うから、治療だと思うから、よけいな考えが混ざり込んできて、よけいな損得勘定や期待と幻滅が混ざり込んできて、ややこしい話になってしまいます。

すべては、生きる上での「稽古」であり、上手になることを純粋に目指せば、「稽古の度にいくらかでも上達する」ということです。ここでさらに大事なことは、それほど意欲的にやっても、進歩は目に見えないほど少しずつであり、急に上手になるわけではないこと、その「稽古」に終わりはないということです。

私たちは、往々にして、「いつまでやればいいですか」「必ずよい結果になるでしょうね」という感じで、「結果を急ぐ」「結果がよくなることしかしたくない」という煩悩があります。

空手の稽古も人生の稽古も、終わりのない、結果に対して何の保証もない中に、それでもより上手になりたいという気持ちを忘れずに、地道な修練をつみかさねていくプロセスなのです。
【2005/06/26】  この記事のURL | 大山倍達かく語りき | ▲ top
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