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戦後62年

今年も、終戦記念日がきた。その前に、8月6日、8月9日に広島、長崎の原爆の日を迎えている。

テレビでは、にわかに、戦争番組を特集する。ただし、最近はほぼNHKだけだ。その日に、その時間に黙祷を捧げる日本人はどんどん減っていく。

戦地に行っていた兵隊さんは、最後の世代が20歳くらいで、終戦を迎えているわけだから、現在82歳になる。大陸で本格的な戦闘を体験し生き残っている人はもう少し上の年齢だろうから80代後半以上だろう。日本人男性の平均寿命が79歳であることを考えれば、もうほとんど生き残っていない。

内地で、空爆を体験し、戦闘どうように死の危険と隣り合わせで生きていた子供たちは、戦争体験として記憶が残っているのは終戦を7歳くらいで迎えた世代だとすると、現在69歳。約70歳くらいだろうか。

戦争体験は、何を体験したかによって、全く解釈が違う。それに時間がたてば、感情体験は変質していくものだ。われわれだった、子供の頃を思い出すと、「昭和はよかった。やっぱ30年代が日本のピークだったな~」などとしみじみ思うものだ。

結局、人の記憶というのは、過去の体験より現在の状態に強く影響されるので、今、無事にある程度幸せに暮らしている人から見れば、戦争体験は話としては悲惨であるが、良い面も語られる可能性が高い。

逆に、今あまりよい思いをしていないならば、戦争体験のネガティブな面ばかりが強調されるだろう。

ただ、共通していえるのは、戦争を知らない世代が、戦争をしたり顔で語っている姿はあまり気分がよいものではないだろうということだ。自分に置き換えてみればわかる。戦争などというインパクトのがある話ではなくても、昭和の生活、あるいは出身校のことを、若い世代の人たちが、意気揚々と批判したり解説したりしてるのをみると「何を偉そうに、何もしらんくせに!」と思うだろう。

それにしても、日本人は自分のことをぺらぺら語ることをよしとしない文化だったせいか、戦争のこと、特に被害を受けたことを語り継いでこなかった。

戦後62年が経過し、今になって、戦争もしらない世代が日本を叩くために「南京事変」を次々と映画化し、アメリカの議会では「日本は従軍慰安婦に対して公式に謝罪すべきだ」と決議したと聞く。

日本は、2回の原爆投下にあい、大都市の無差別爆撃で民間人が大量虐殺にあい、満州方面では無法なソ連の侵攻にあって、シベリア抑留、レイプ、虐待にあい、最終的に東京裁判で1000人もの軍人が死刑に甘んじて、罪を償ったはずなのだが、未だに世界は日本を許さないという姿勢らしい。

とうの日本人も、自分たちの受けた被害を主張することなく、語り継ぐことなく、批判に甘んじ、「戦争を仕掛けて、負けたんだからしょうがない」と思いこんでいる。悲しい現実だ。

良い悪いは、どこまでいっても水掛け論になるだろう。ただ、事実を事実として語り継ぐ姿勢まで放棄することはないだろう。我々が知っているのは、「日本人が中国、韓国を始め、アジアの人々に、どれほどひどいことをしたか」という「事実ではなく思想」だけだ。

後5年もすれば、本当の戦争体験者はほとんどいなくなるだろう。10年たてば戦争世代は絶滅するだろう。その後に、われわれはどういう歴史を刻むのだろうか。誰もしらない思想としての罪を、永久に背負わされて生きていくのだろうか。日本人が受けた屈辱と悲しみは語り継がれることなく忘れ去れれていくのだろうか・・・。こういうのを「うかばれない」というのではないか。

歴史というのは背骨のようなものだ。それがなければ立つこともできない。我々日本人は今後、立つことはないのだろう。立つことなく液体や気体のように、流動的にどろどろと、ふわふわと、世界の中をただよっていくのだろう。それもまた歴史の必然か、運命か。このまま、日本は一部の国の精神的奴隷になりさがって、一部の国の利害のために必死で(無意識に)命をかけて奉公を続けていくのだろう。まあ、それはそれでよし。ある意味、それはすばらしく進化した命のありようなのかもしれないね。「まあいいじゃん」「どっちでもいいじゃん」「めんどうだし」「いまたのしいい」「がんばってもかわんないでしょ」・・・すばらしい、奴隷根性だ!みごとなり、連合国の戦後政策。日本は完膚無きまでに敗戦し、独立心なき属国として完成に近づきました。連合国の皆様、これでいいですかって感じだな。

「今でも世界で日本は搾取しているではないか、悪いことをしているやつもいるではないか、イチローのような英雄もいるではないか・・」そういう声が聞こえてくるな。関係ないね、そういう局所的な減少は、いつの時代にもあるものだ。大事なことは、日本という国の全体を覆う流れ、空気のことだ。それにのらないのは、一部の能力がある(つまり変わり者)だけで、一般の人々はそうじゃないでしょ。さあ、どうする。これでいいのか?

口で言うのは簡単だ。自分はどうすればいいのか、何ができるのか。もう一度、よく考えてみよう。

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【2007/08/16】  この記事のURL | 未分類 | CM(3) | TB(0) | ▲ top
絵は写真よりすごいんだ

わしは大学時代、美術部と柔道部に所属していた。そういうどっちつかずの生き方がわしの性格を如実に表していたわけだ。

すっかり記憶の彼方に消えていたことだが、実は今から25年前にわしら美術部員が描いた油絵が、ひょんなことから大学にもどってくることになった。

名古屋市が蓼科にもっていた保養所にわしらが学生時代に描いた油絵が飾られていて(それ自体を完全に忘れていたわけだ)、その保養所が取り壊しになるにあたって、絵の処分をどうするかという話になったらしい。そのまま破棄されるのはあんまりなので、絵を大学にもどしてもらって、それを機会に当時の美術部員が集まろうという話になったわけだ。とりあえず、今日のこの日まで大学生協の喫茶部に飾られていて、その場所でOB会が開かれた。

さすがに約25年ぶりの再開には、少々どきどきした。どんな顔をして入っていったらよいのか、誰がきているのか。まあ、皆、同じような気持ちだったろう。それぞれが、自己紹介をするうちには、場の空気は和み、昔の思い出が徐々に鮮明になってきた。飾ってあった絵は、「あーあれだったのか」と思い出したが、みるがみるまでどんな絵だったのか全くわからなかった。他の人たちの絵を見ると結構な秀作で、そこそこレベルが高かったんだなと改めて思った次第だ。

まあ、OB会がどんなに楽しかったのかをここで書きつづっても、これを読む人たちには何の関係もない話なので引いてしまわれるといけないので、このへんでやめておこう。わしが何を言いたかったかというと、「絵って写真よりすごいんだ」ということだ。

わが美術部には、生ける伝説と言われている、偉大な先輩がいる。誰もが、絶対にかなわないと素直に思ってしまう作品をコンスタントに作成されていた。その先輩は現在、脳神経外科をされているわけだが、その先輩について、わしの同期で同じ脳神経外科で研鑽した男が卒業後のエピソードを紹介してくれた。それは「手術記事の絵のすごさ」についてである。外科系で手術を行う場合は、どの分野でも、手術後に詳細な手術記事が書かれる。それは手術の詳細なプロセスと、手術部位のイラストからなる。生ける伝説と言われた先輩の技術はそこで発揮されていたようだ。わしの同期の男がいうには、言葉にならないほどすごいものだったそうだ。

そしてさらに、その男が言った、「そういう絵を見ていると、誰が何を意図して、どのような手術をしたのかが鮮明にわかる」というのだ。わしは愕然とした。「いくら正確で詳細な絵であっても、写真に比べたら、どう考えても劣るだろう、特に科学の分野では」と思っていたからだ。そうか、人は単に中立的な情報を眺めているわけではないんだ。その形の中に、意味とか情熱とか苦労とか、さまざまな人としての営みをみているのだ。そして、人が本当に知りたいこと、本当に感動することは、きれいで鮮明な画像ではなく、そこからにじみ出てくる、あるいはあふれてくる、人の心の動きなのだ。だから、鮮明な写真より、肉筆で描かれた絵の方が価値が高いのだということが何となくわかった。

コンピュータが間違いなく奏でる電子音楽より生の演奏に感動するのかのように、デジタルよりアナログなものになぜか心を引かれるのも同じことだろう。人はただ単にビットからなる正確な情報を知りたいのではない。一見、不規則のような固有の規則性やゆらぎ、不安定に見える安定感、そういう微妙なもの、二度と再現されることはない、その瞬間だけに誕生した形の中に、無尽蔵のエネルギーを感じ取るのだ。

逆に言えば、デジタル文化に飼い慣らされてしまうと、そういう微妙なエネルギーを感じ取る感覚が麻痺して、正確さ、鮮明さ、いつみても同じということに安心を得るようになってしまうのではないだろうか。そうなれば、人間にとってもっとも人間らしい部分を失ってしまうような気がする。

芸術は品評会ではない。おそらく、そういった微妙なエネルギーを表現したり、感じ取ったりする修練の場なのだと思った。

そんなことを感じさせてくれたのも、今回のOB会のおかげである。会の開催まで骨を折ってくださった方々に感謝します。

【2007/07/07】  この記事のURL | 未分類 | ▲ top
男はつらいよ2
最近の一番の楽しみは、男はつらいよのDVDをみることだ。懐かしい、昭和の風情が味わえるのと、渥美清の嫌みのない演技が心地よい。

今日は、男はつらいよ純情編をみた。いつも通り、たたき売りをしながら放浪の旅をしているわけだが、山口県で子連れの女性にあう。その女性は親の反対を押し切って駆け落ちのように結婚したのだが、その男が働かない暴力をふるうで耐えられなくなり、不安ながらも五島列島の実家にもどるところだった。お金もない女性を助けながら、寅さんも一緒に女性の実家いく。
そこで父親は無愛想にしていて、そんな苦労をしている女性に戻れという。帰ってきて自分がもうしんでいたらどうするつもりだったのか、いつかは帰るところはなくなるんだと。それを聞いていた寅は自分に照らし合わせていう。「そう、その通りだ。帰る場所があると思うからいつまでたっても一人前になれねえ。もう俺はかえらねえよ、絶対にかえらねえよ」と。しかし、そこに船の汽笛が聞こえ、やもたてもたまらず、家を飛び出して船に乗り、またまたとらやに帰ってしまった。

そこでまたまたきれいな女性にであい、一悶着あるといういつもの展開だ。「今度の寅さんの恋はいつまで持つでしょう」みたいに下町では物笑いのタネだ。それを聞いてしまった、妹さくらは胸を痛める。そして、ある時、歩きながら「どうして人に笑われるようなことばかりするの」と愚痴をこぼす。
そこで寅さんがいうセリフがおもしろい。

「わかっちゃいるんだ、おれだって。頭じゃちゃんとわかっているんだ。でもよ、気持ちがいうことを聞いてくれねえ。だからよ、俺のせいじゃねえんだよ」
「もう二度とけえらねえ、そう思ったんだが、気づいたらかえってきちゃうんだな~」
まじめな顔をして、そういう寅さんをみて、それまで愛想を尽かして悲壮な表情だったさくらが思わず笑ってしまうのだ。
その言葉の裏には、恋愛も同じで、頭じゃわかっちゃいるけど、きれいな女性をみるとな~という自嘲的な思いが込められている。

長くなったが、別に男はつらいよの解説をするのが目的ではないよ。
「頭で考えること」と「気持ち」をきっちり別物で、気持ちが勝手に動くのは「自分のせいじゃない」って開き直っているところがすばらしいと言いたいわけ。それも、罪悪感とか悲壮感とかなくて、ごく自然に当たり前のようにそういっているところがむしろほほえましい、悪意はないからな。それで妹さくらも思わずわかってしまったわけだ。

言い訳でも何でもなく、寅さんにとっては自然現象、どうすりゃいいかわかんないよってことだね。寅さんの行動は、いわばADHDっぽいところがある。感情にまかせて動くところは、時には暴れん坊で手の着けられない馬鹿だし、時には情の深い優しさと思いやりに満ちた善人で、その両方あるところが魅力になっている。
最近なくなった、植木均の無責任男「わかっちゃいるけどやめられない」「金のない奴は俺んとこに来い、俺もないけど心配するな」ってのに合い通ずるものがあるね。

心に余裕がある時代は、こういう性質はある意味「しょうがないね~あいつは」で受け入れられやすいが、世知がらい世の中になってくると、無責任、自分勝手、危険人物っていうネガティブな面ばかりが強調されてしまう。

人間はそれほど、うまくはできていない。頭の考えと行動を一致させるには、気持ちのコントロールが欠かせない。しかし、一般的には、寅さんがいうように「知らねえよ、俺だってこまってるんだよ。気持ちが勝手につっぱしっちゃってさ。なんかいい方法があるなら教えてくれよ。ちゃんとやってみるからさ」って感じだろう。

それじゃあ困るのだけど、少なくとも、気持ちのコントロールはできて当たり前、できない奴はだめな奴ってのは間違いじゃないかな。基本はできない、でもそれじゃあ困ることもあるから、ちょっとずつ助け合いながら、バランスとっていこうよってことじゃないかな。とらやを巡る人間模様はそれを象徴的に表現していると思うな。気持ちのコントロールが何とかできているのは、妹さくらだけってところが非常に現実をよく表していると思うよ。

そんなことも想像しながら、男はつらいよを見てくれ。癒やされるよ。
【2007/05/21】  この記事のURL | 未分類 | ▲ top
成人式に思う
以前ほどではないが、今年も成人式で大暴れした輩がいた。そして恒例のようにテレビでは、成人式をどうすべきかの議論が、しばらく続く。そしてまた、話題に登らなくなる。話題にすることが目的で、具体的な対策なんか煮詰める気は初めからない。

だいたい、大暴れ事件があったその日に、かつて大暴れしたOBのインタビューを流している。対策なんかより、面白おかしく報道する気満々だ。どうせ一部しか報道しないから、我々は成人を向かえる人達全般のことが分かるわけではないが、さも「最近の連中は何を考えているんだ」と思わせる報道ぶりだ。それと対比して、夕張の成人式を取り上げ、健気さを強調する。上げたり下げたり忙しいことだ。ニュースは、中立であるという話を学校では教えられたが、そんな大ウソを教えていいのか?

まあ、そんなことはどうでもいいのだが、成人式がなんでこう成ってしまったのかという問題だ。形式的には、我々が参加した約25年前の成人式とそれほど変わらない気がする。いつからこんなことをしているのだろうか?もっと昔はこんなに大規模にはしなかったろう。家の近所で、知っている叔父さん叔母さんがうろうろしている場所では、さすがにそんな不埒なことはできんだろう。

となれば、かつて、公共事業として大きな市民会館を造り、そこで、地元出身の政治家が、選挙権をもったばかりのバカ者どもに、自分のイメージを刷り込もうというスケベ心で始めたってーのが実態じゃないのか?(そう思って、調べてみたら、起源自体は健全な物だったが、やはり途中から政治の具にされていったことが分かった。詳しくはホームページ参照、大学の卒論だろうが、よくしらべたな~ http://www.mgu.ac.jp/~jfmorris/Sotsuron/2001/IshikawaNanae/Ishikawa.htm#成人式の成立

ことほと左様に、今起こっているさまざまな問題は、かつて、誰かの都合のよいように始めたことが、時代の変化の中で錆び付いてきて、より動物に近い輩がその状況に単純に反応してしまって、結果としてそいつらが自分の意志でやっている気になっているだけで、一歩引いてみれば踊らされているだけってことじゃないのか?

教育だってそうだろう、戦後のトラウマに乗じて、左翼の連中が、反日、反体制教育を、次世代の無意識に繰り込もうとしたら、思いの外、物質的に豊かになり過ぎて、ただだらし無く権利だけを主張するバカ者を大量生産してしまったってことじゃないのか。

今の現象は、今起こっている訳じゃない。今に続く、過去の集大成ってことだろう。結局、自分の都合のいいスケベ心にはバチが当たるということだ。じゃあ、なんでそのあおりを無垢な私達が浮けなきゃいけないかって?だって、その私達だって、そういう如何わしさに反対して戦ってきた訳じゃない。指をくわえて見ていただけだから、みんな共犯なんだな。
そう書きながら、自分を振り返り、我が襟を正そうと思いますわ。
【2007/01/08】  この記事のURL | 未分類 | ▲ top
いじめ問題に一言
今、世間をにぎわせている問題の一つは「いじめ」問題である。連日、様々な立場の人が様々な意見をいい、激論している番組も多い。

結局、誰も当事者ではないし、当事者であっても、自分の体験から全体の解決策を導くには無理がある。

私とて同じ穴のムジナで、偉そうなことをいうつもりはないが、ちょっと引っ掛かることがあるので批判覚悟で書きます(とはいえこのブログはコメントを受け付けていないので、批判のしようがないだろうが・・)。

「いじめは昔もあった」この台詞にひっかかるのだ。昔もあったかどうかということではない、昔もあったのだから解決は簡単だとか、昔のやり方を模倣し解決策をさぐるというやり方にひっかかるのだ。いわく「昔は傍観者が少く止める人がいた」、いわく「昔は大人に権威があり、先生たちが怖かった」、いわく「昔のいじめは今のように陰湿ではなかった」・・・などなど。

話が飛躍するように思われるかもしれないが、同じような現象がいくらでもあるのだ。「戦前は糖尿病なんか多くなかった」「生活習慣病」一般に言えることだ。確かに多くはなかっただろうが、確実にその病気はあった。「アレルギー性鼻炎」は今や国民の30%以上に認められると言われるが、これだって、昔は少なかった。環境や食習慣の変化という人々が受け入れやすいことが理由としてあげられるので、何となくそういう物かと思っている。「昔もあったけど、こんなに多くなかったよね~」という点では同じでしょ。それに、原因が割と明らかなのに、どうしようもない。患者さんは増える一方です。こういうことに対してこそ、昔のような食習慣に変えるとか、環境整備をするとかすればいいのに、分かっているのにできないじゃないか。だから、いじめは昔もあった・・教育のゆがみを修正して・・・とか、子供たちにメッセージを送って解決に近づいているような簡単な話にしようとするのは胸くそが悪い。

まあ、こういった病気と、いじめと比較されても困るだろう。では摂食障害はどうか。1980年以降、西洋文化圏を中心に爆発的に増えた。とはいえ、この病気は昔からあったのだ。それが増えたことで目立ってきたのだ。明らかに、本人たちの意志を越えた「病的強迫観念」に突き動かされ、病気の世界にからめとられていく。しかし、増えかけた当時、そして今でも多くの人(専門家を含め)は、「本人が好きでやっている」「治す気がない」「甘えている、現実逃避だ」などと思い込んでいる。そう思いたいのだろう。そう思っておれば、自分が関与する必要がないからな。

関与するとなると、無理に食べさせようとしたり、しかったり、脅迫したりするだけだ。そして言うことを聞けばそれみろと言われ、言うことを聞かなければ「治す気がない」といって投げ出される・・・。

よくにていると思わないか?不登校、ニートなんかも似た現象だ。そして、もっと重要なことは、どの問題ひとつ取っても、いまだに何の解決も対策もできていないということだ。いじめ問題だって同じだ、簡単な処方箋なんかある訳がない。なぜなら、歴史的に積み上げてきた様々な問題点・矛盾点の集大成なんだから。

摂食障害が問題になったとき、やせを礼讚する社会文化的背景が大いに関与していると言われた。それなのに、いつまでたっても痩せたモデル、女優を垂れ流しているじゃないか。マドリードでBMI18以下のモデルは使わないと大英断を下したが、それとてマスコミは重要性を値下げして、ちゃかしてしまった。摂食障害ほど分かりやすい問題だって、何一つ対策をこうじられないのだ。頻度だって、いじめに勝るとも劣らないのにな。

それと、最も大きな間違いは、いじめ問題がいじめられる人をどうするかという問題になっていることだ。これはDV(ドメスティックバイオレンス)の時と同じだな。被害者の女性をどうするか。にがす、シェルターにかくまう・・それは一番優先事項であるが、解決策ではない。本質的問題は、暴力依存症の男をどうするかということだ。いじめもそう、集団依存症、異質恐怖症、孤立恐怖症の子供をどうするかということだろう。

「いじめた奴を厳しく罰すればいい」そんな簡単な問題だと思っていると、余計に問題をこじらせるぞ。もはや、誰ひとり無関係な人間はいない、社会の構造的な問題だ。いじめられる少数派が、自爆テロのように、命懸けで逆襲してきた今、その行為すら「意気地が無い」とか、「生きる勇気をもとう」とか、「君は一人じゃない」とか寝ぼけたことを言っていると大変なことになるぞ。ましてや「愉快犯だ」などと何の証拠もない自分の思いこみで甘い対処をしているともっと大変なことになる。なにせ、迫害されている側は、少数派であっても命がけだから。それほどの緊迫感はやっている側にあろうはずがない、ましてやテレビ越しに高見の見物をしている大人にもない。唯一緊迫しているのは、一部の心ある教師であろう。気の毒なことに、世間はそういう教師を応援するどころか、教師までも迫害し始めた。とうてい無理な状況に追い詰めて、解決しろと高みの見物をしている連中は一番罪深い。

いじめにも様々なレベルがあるから、一緒くたにして語るのは危険だ。厳罰に処するという悪童もいるだろう。しかし、それこそ、昔からそういうやつはいたし、これからもいるだろう。問題は、その周辺で時代の影響を受けて連鎖反応をしている人々である。いじめをどうするかも大事だが、長期的には、集団依存症、異質恐怖症、孤立恐怖症を何とかしないとまずいぞ。まあ、話が止まらなくなるのでやめておくが、携帯電話とインターネットが人間の想像力を越えて社会と人の心の中に入り込んでしまったことは、まさに「予想外」の危険因子だろうな。これをどう制御できるか、これを制御できない限り解決はないだろう・・・と勝手に思う。生活習慣病をどうするか何て、当事者は大人なんだから自分で解決しろ。子供の問題は大人の責任だよ。
【2006/11/24】  この記事のURL | 未分類 | ▲ top
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